【プロ野球の歴史】高橋ユニオンズ ~ビール王の夢から生まれた球団~
2004年に誕生した東北楽天ゴールデンイーグルスは新規参入球団としては半世紀ぶりのことでした。それでは、その半世紀前の球団は? というと1954年に設立された高橋ユニオンズです。わずか3年で消滅してしまいますが、いろいろなエピソードを持つ球団です。(本文中、敬称は略しました)
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ビール王、再び球団経営に乗り出す
1950年にセ・パの2リーグが誕生し、パ・リーグは7球団でスタートしました。
翌年、セ・リーグの西日本パイレーツが西鉄クリッパーズに吸収合併されて、セも7球団になります。
7球団ということは、毎日どこかの球団は試合がないことになります。
セは1球団減の6球団を目指し、最終的には皮肉にもリーグ初年度の優勝チームである松竹ロビンスが消滅し、現在に続く6球団体制になります。
一方のパは1球団増の8球団体制を目指します。この時に、名乗りを上げたのが現在のアサヒビールとサッポロビールの元となる大日本麦酒社長を務め、ビール王と呼ばれた高橋龍太郎でした。高橋は政界にも顔がきく財界人で、1リーグ時代に球団のオーナー経験もありました。その球団名がイーグルス。楽天の略称と同じチーム名というところにドラマを感じさせます。
高橋は私財を投じ、大日本麦酒の主力商品・ユニオンビールから名前を取り、高橋ユニオンズが設立されます。
高橋ユニオンズを創設した高橋龍太郎。
「ビール王」と呼ばれ、第三次吉田茂内閣の通産大臣も務めた。
あの大投手も、あの有名選手の父もユニオンズの選手だった
初代監督に就任したのは浜崎真二。阪急ブレーブスで選手兼任監督を務め、2015年に引退した中日ドラゴンズの山本昌が破るまでの最年長出場記録を持っていた人物です。
新規参入したものの、後年の楽天と同様に選手がいません。そのため、パの7球団から選手を移籍してもらうことになりましたが、主力選手を出すチームは多くありません。
しかし、その中にも大物はいました。戦前の東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)で主戦投手として活躍し、現在北海道の旭川市営球場に名前を残すスタルヒンもその一人です。
スタルヒンは創立時にユニオンズに参加、翌年39歳までプレーし、日本プロ野球史上初の300勝投手となりました。
2015年、広島東洋カープに復帰した黒田博樹の父・一博も南海ホークス(現福岡ソフトバンク)からユニオンズに移籍し、ユニオンズ初戦となる1954年の開幕メンバーに3番・センターで名を連ね、年間を通じてクリーンアップで出場しています。
高橋ユニオンズの監督を務めた浜崎真二
北海道旭川市のスタルヒン球場と、球場外に建つスタルヒンの銅像
トンボ鉛筆がスポンサーに
ユニオンズ1年目は53勝84敗3分、優勝した西鉄から37ゲーム離されたものの8球団中6位の成績でした。
しかし、当時のパで人気球団ではないユニオンズの1試合平均の観客動員数は約3,000人。利益が出るはずもありません。
高橋はトンボ鉛筆に支援を仰ぎ、トンボユニオンズに改称します。現代で言うネーミングライツで、トンボからの提供は1,300万円だったと言われています。
歴代記録でスタルヒンの球団名がトンボになっているのは最終在籍球団がこうした理由でトンボユニオンズだったからです。
2004年の球界再編騒動の発端は、赤字経営に苦しむ大阪近鉄バファローズがネーミングライツを認められず、売却に至った経緯があります。その点で言えば、当時はのんびりとした時代だったと言えるかもしれません。
ユニオンズの2年目の成績は初年度を下回り、42勝98敗1分、勝率.300、首位・南海から57ゲーム差の最下位に転落します。
当時のパ・リーグには勝率.350を切った場合は、500万円の罰金を払う規定があり、トンボは1年でスポンサーから撤退します。
トンボユニオンズ時代のスタルヒン。
現役最後の年をトンボユニオンズの選手として送り、日本プロ野球初の300勝を達成した。
「東京六大学より弱い」 慶応のスター、ユニオンズの現状を嘆く
再び高橋ユニオンズに改称したチームに、東京六大学のスター選手で慶応大学の名セカンドだった佐々木信也が入団します。
佐々木と言えば、フジテレビ系列で当日の全試合のプロ野球結果の詳細を放送していた「プロ野球ニュース」のキャスターとしての方が馴染み深いかもしれませんね。
佐々木は春季キャンプに参加した時に、セカンドのレギュラーを獲れると確信したと述べています。
佐々木はルーキー・イヤーを1番・セカンドで全156試合にフルイニング出場、打率はリーグ6位の.289、180安打のリーグ最多安打と34盗塁を記録し、オールスター、ベストナインにも選出されます。
新人選手の180安打は、現在まで誰にも破られていない記録です。
この成績であれば新人王のタイトルも間違いなし、というところですが、不幸にもこの年の新人に21勝を挙げ、最優秀防御率に輝き、西鉄ライオンズ(現埼玉西武)優勝に貢献した稲尾和久がいたため、新人王獲得はなりませんでした。
佐々木信也
大学時代は慶応の名セカンドとしてならし、現役引退以後、「プロ野球ニュース」のキャスターを務めた。
高橋ユニオンズの終焉 当時のパ・リーグの人気は・・・
ユニオンズが解散したのは1957年3月6日、キャンプ真っ盛りの時でした。
球団社長が突然キャンプ地を訪れ、選手を集めると「今日で解散することになりました」と告げ、あっさりとこのユニークな球団は終焉を迎えたのです。
もっとも、球団は全選手の移籍先を確保したのですから、精一杯の誠意は尽くしたと言えるでしょう。
佐々木は大映スターズ(同年大映ユニオンズに改称)に移籍するも、大映がこの年最下位で勝率も.318だったため、罰金を払うと毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)と合併、大映毎日(大毎)オリオンズとなります。佐々木は大毎で2年プレーし、通算4年の短い現役を終えました。プロ野球選手としては不運だったというしかありません。
当時のパ・リーグは南海や西鉄などの人気球団でも1試合の平均観客動員数は1万人を超える程度で、ユニオンズや大映、近鉄などは2,000から3,000人ほどでした。リーグ平均でも5,000人を下回り、ユニオンズの最終56年の平均入者数は1,760人。現在まで破られることのない不名誉な記録です。
佐々木は、ある試合であまりにも観客が少ないので数えたところ32人だった、と述べています。
ユニオンズの年間入場料収入は300万円。一方で後楽園球場(巨人の本拠地・東京ドームの前身)の巨人・阪神戦は1試合で1,500万円と言われた時代で、セとパの人気の格差は埋めようのないほどでした。
20015年は全12球団が前年を上回る観客動員を記録し、セは東京ヤクルト・広島・横浜DeNAの3球団、パもソフトバンク・西武・オリックス・楽天の4球団が過去最多となり、パはリーグ最多を更新しました。1試合平均入場者数が2万人を超えるソフトバンクに至っては、当時のパ・リーグ関係者からすれば隔世の感があることでしょう。
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フリーライター。歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。