【プロ野球の歴史】オリックスバファローズ ~球団に起きた三度の激震~
オリックスバファローズの前身である阪急ブレーブスを創設したのは実業家・小林一三です。この名前、どこかでお聞き覚えがありませんか?そうです。宝塚歌劇団の創設者として知られる人物です。つまり、オリックスの根は宝塚歌劇団と同じ、ということになりますね。阪急からオリックスへの譲渡劇から見ていきます。
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アイキャッチ画像出典:www.buffaloes.co.jp
突然の球団売却 ~球団社長さえも驚き、号泣した~
オリックスバファローズは2015年7月13日に、阪神タイガースに続き史上2球団目の通算10,000試合を記録しました。
それほど歴史と伝統を持つ球団ですが、順風満帆だった訳ではありません。球団と関西地区に合わせて3回の激震が襲いました。
その初めは1988年10月の阪急からオリックス(当時はオリエント・リース)への突然の球団売却でした。監督の上田利治をはじめ、コーチ・選手が知ったのが当日というのですから、いかに突然の球団売却だったかがわかります。
当時は、先にご紹介した西武ライオンズ(現埼玉西武)の黄金時代の真っただ中とはいえ、阪急は84年に西武の3連覇を阻止してリーグ優勝を飾りました。88年の成績は4位ながら、75年からの14年間で4連覇を含むリーグ優勝5回、日本シリーズ優勝3回、2位4回、3位1回と安定した成績を残しています。
売却の理由は長年続く球団の赤字でした。売却先がオリックスになったのは、当時、球団の親会社である阪急電鉄とオリックスは三和グループ(旧三和銀行を中心とした企業グループ。UFJグループを経て、現在は三菱UFJファイナンシャル・グループ)の一員であり、記者会見に臨んだ三和銀行頭取の渡辺滉は、グループ内での組織変更と説明しましたが、阪急球団社長の土田善久は無念の涙を流しました。
その涙の背景には、「私が死んでも宝塚とブレーブスは売るな」と言い遺した創業者・小林一三の言葉がありました。
阪急からオリックスに出された条件は、上田の監督留任、西宮球場の使用継続とブレーブスの名を残すことという3つでした。
阪急ブレーブスの創設者・小林一三。
宝塚歌劇団の創設者としても名を知られる。
1976年、阪急として初めて日本シリーズで巨人を破り、胴上げをされる上田利治監督
青い波に新しい風が吹く ~仰木彬とイチローの出会い~
2年後の1990年、2年連続の2位で優勝を逃した上田が辞任を表明します。後任には読売ジャイアンツのV9戦士の一人、土井正三が就任。これを機に本拠地を神戸グリーンスタジアム(以下同じ。正式名称は神戸総合運動公園野球場、現ほっともっとフィールド神戸)に移転、チーム名もブルーウェーブに変更されました。
球団移譲時に阪急が出した条件は、わずか2年ですべて消滅しました。
土井は3年連続の3位で監督を退きます。
92年からオリックスには特徴ある打撃フォームの若い選手が在籍していました。土井は素質を評価しつつもフォーム変更を指示しますが、固辞したため、その選手は冷遇されます。この選手こそ、イチロー(当時の登録名は鈴木一朗)でした。結局、土井監督時代におけるイチローの2年間の成績は83試合出場、36安打に止まります。
94年からオリックスを率いたのが仰木彬でした。仰木は近鉄監督時代に選手として見ていた新井宏昌を打撃コーチとして招聘します。仰木・新井に見出されたイチローは、その才能を遺憾なく発揮して前人未到のシーズン200本安打を達成するのです。
この記録は130試合制ではいまだにイチロー唯一人が有する記録です。また、イチローの前に130試合制の最多安打記録を持っていたのは新井でした。
近鉄監督時代に野茂英雄、オリックス監督時代にイチローを見出した仰木彬。
選手時代は西鉄ライオンズの正二塁手として、日本シリーズ3連覇など黄金時代を支えた。
ブルーウェーブ時代の仰木とイチロー
1994年、前人未到のシーズ200本安打を達成し、ファンの声援に応えるイチロー。
左はブルーウェーブのマスコット・キャラクター、ネッピー。
阪神淡路大震災を乗り越えて ~がんばろうKOBE~
関西地方が激震に襲われたのは1995年1月17日の朝。阪神淡路大震災です
オリックスの本拠地・神戸グリーンスタジアムも被災しましたが、選手たちは被災地・神戸のシンボル的な存在として、ユニフォームの袖に「がんばろうKOBE」の文字を刻み、リーグ優勝を果たします。
さらに翌96年もリーグ制覇し、日本シリーズでは巨人を破り、神戸に日本一のチャンピオン・フラッグをもたらしました。
オリックスブルーウェーブのユニフォーム。
袖には「がんばろうKOBE」の文字が刻まれている。
1995年、リーグ優勝を決め、ナインに胴上げされる仰木彬監督
球団二度目の激震 ~関西圏の球団の吸収合併~
2004年に起きたオリックスと近鉄バファローズの吸収合併は、球界に大きな波紋を拡げました。
5球団ではリーグ戦開催が困難として、さらに1球団を合併させて1リーグ10球団構想がオーナー会議で取り沙汰される一方で、労組・日本プロ野球選手会は会長・古田敦也を中心に2リーグ12球団維持を訴えます。
日本プロ野球史上初となる選手会のストライキも実行されましたが、世論の大半は選手会側を支持しました。
その後の紆余曲折を経て、オリックスと近鉄は合併して翌年からオリックスバファローズとなり、東北楽天ゴールデンイーグルスが新規参入しました。
近鉄バファローズ監督時代の仰木彬。
運命のいたずらか、仰木は近鉄バファローズ、オリックスブルーウェーブ、オリックスバファローズの監督を歴任した。
オリックスと2つの球場の関係 ~オリ姫効果で観客数は急上昇~
近鉄と合併した翌2005年から3年間の特例措置として、ダブルフランチャイズ制が採用されました。これは合併前のオリックスの神戸グリーンスタジアムと近鉄の大阪ドーム(以下同じ。現京セラドーム大阪)の2球場を本拠地とし、期限後は大阪ドームを本拠地とするものです。
しかし、大阪ドームの運営会社・大阪ドームシティは08年10月に会社更生法を申請し、事実上倒産します。オリックスは円滑な試合運営を実現するため、暫定的に本拠地を神戸グリーンスタジアムとする一方で、子会社のオリックス不動産に大阪ドームの経営を買い取らせました。現在では本拠地を大阪ドームとし、球団との一体経営を実現しました。
夏の高校野球期間中には大阪ドームで阪神戦も開催されています。かつての阪神にとって、この間は「死のロード」と呼ばれましたが、涼しいドーム球場ならばむしろ大歓迎でしょう。
オリックスの14年の観客動員数は前年比18.4%増の約170万人で球団新記録となりました。
この数字を支えたのが、「オリ姫」と呼ばれる若い女性層でした。「カープ女子」ブームに沸く広島東洋カープと同様に、若い女性をターゲットにした企画を次々に打ち出しています。
大阪ドーム(現京セラドーム大阪)
神戸グリーンスタジアム(現ほっともっとフィールド神戸)
神戸総合運動公園ウェブサイト -KOBE SPORTS PARK- web site
ほっともっとフィールド神戸が含まれる神戸総合運動公園の公式サイトです。
只今、オリ姫急増中!
写真撮影会に集まったオリ姫たち。
オリックス・バファローズのオフィシャルサイトです。
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この記事のライター
フリーライター。歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。