【プロ野球の歴史】福岡ソフトバンクホークスをめぐる親会社の変遷
福岡に本拠地を構え、今やパ・リーグだけでなく、プロ野球界において人気・実力ともに屈指の球団となった福岡ソフトバンクホークス。
現在の位置を確保するまでには、幾多の苦難がありました。チームとしてのホークスと、親会社の経営や経済の変遷を見ていきましょう。
(本文中、敬称は略しました)
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南海からダイエーへの球団譲渡 ~条件はわずかに2つ~
ホークスの歴史は1リーグ時代から始まります。2リーグ分立時には南海ホークスとしてパ・リーグに加盟しました。
「セ・パ両リーグ分立から現在までの企業の変遷」の記事でもご紹介したように、パ・リーグの球団は2リーグ分立時の親会社が全て代わり、チーム名が続くのもホークスだけになりました。
南海時代のホークスは、1リーグ時代から通算23年間にわたって監督を務め、名監督として名を残す鶴岡一人に率いられ、常に優勝争いを展開し、日本一にも輝いた強豪チームでした。
鶴岡の後は野村克也が兼任監督としてチームを率いますが、野村が退団した後はチーム力が低下し、Bクラス(4位以下)が続きます。
大阪圏には熱狂的なファンを持つセ・リーグの阪神タイガース、同じパ・リーグには南海同様に古い歴史と伝統を持つ阪急ブレーブス、さらには近鉄バファローズと4球団が本拠地を構えていました。低迷が続くと、南海は厳しい観客争奪戦を強いられました。
長くオーナーを務め、ホークスを愛してやまなかった川勝傳(かわかつ・でん)が1988年に亡くなると、親会社の南海は球団売却に動き、この年の秋にスーパーのダイエーに譲渡されることになりました。
南海から譲渡の際に出された条件は、南海ホークス最後の監督となる杉浦忠を留任させること、ホークスの名を残すことの2つだったと言われています。
この前年には阪急が球団をオリックスに譲渡し、1リーグ時代から続く名門球団が相次いで売却される結果となりました。
福岡のファンの熱烈な歓迎とチームの不振 ~杉浦から田淵を経て根本へ~
ダイエーは創業者・中内功(正しくは「功」の「力」を「刀」)が一代で築き上げた企業グループで、球団を保有することによって大きな宣伝効果を得られると考えていました。
かつて九州には福岡を本拠地として西鉄ライオンズが人気を集めていましたが、1978年オフに西武鉄道がライオンズの球団経営に乗り出して本拠地を埼玉に移して以降、九州はプロ球団不在の年が続いていました。九州の野球ファンは福岡に移ってくるホークスを歓迎し、現在の活況を生む一因となりました。
中内は日本での成功をもとに東アジア進出を検討していました。球団を保有する頃には、東アジアで最も有名な人物の一人である王貞治を監督に迎え入れることを視野に入れていたと言われます。
ダイエー球団初年の89年は4位。杉浦はこの年限りで監督を辞任しました。
後任には法政大学時代から六大学の花と呼ばれ、阪神・西武に在籍して人気もあった田淵幸一を招聘します。しかし、田淵は在任期間中に順位こそ6位、5位、4位と上げたものの優勝争いからは遠く隔てられて低迷しました。
93年からは広島東洋カープ、西武で監督を務めて後の黄金時代の基礎を築いた根本陸夫が監督に就任します。この年は、日本初の開閉型球場である福岡ドーム(現福岡ヤフオク!ドーム、以下福岡ドームと記述)が完成した年でもあります。
根本はチームの補強と若手選手の育成に努め、2年目の94年には南海時代から17年間続いていたシーズンの負け越しを阻止し、躍進ムードが高まる中で勇退します。
そして、中内の夢であった王の監督就任となるのです。
日本一の大輪の花を咲かせる ~歓喜するチームに忍び寄る影~
根本監督時代にFA移籍した秋山幸二、ドラフトで獲得した小久保裕紀、城島健司らに加え、95年からは石毛宏典、工藤公康も加入し、優勝に向かう戦力は整っていたと言えます。
しかし、チームは5位、最下位、同率4位と低迷します。期待が大きかっただけに、ホークスファンの失望は大きく、96年には試合終了後に王の乗るバスにファンから生卵が投げつけられる事件も起こりました。
しかし、98年に勝率5割でオリックスと同率3位になると、翌99年にはダイエーがプロ野球経営に乗り出してから11年目、王監督就任から5年目、ついにリーグ優勝を飾り、日本シリーズでも中日ドラゴンズを降して日本一に輝きました。
奇しくもこの年のシーズン開幕直後、前監督の根本が死去し、ナインは根本の遺影を掲げて胴上げとバンザイを繰り返しました。
翌年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズで対決したのは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツでした。ON対決と騒がれましたが、軍配は長嶋・ジャイアンツに挙がりました。
ところが、2年連続優勝という絶頂期にありながら、チームにとって予測もしなかった方向から危機が訪れ始めていたのです。
デフレがホークスの危機をもたらした ~中内戦略の想定外~
ホークスの危機は親会社であるダイエーの業績不振という形で訪れました。
中内の経営戦略は多角化でした。複数の業種にグループ会社を展開することで、ある業種が不振に陥っても別の業種の企業がグループを支えるというものです。
しかし、バブル崩壊とそれに続く不況によって日本経済はデフレになりました。本業のスーパーはもちろん、それを助けるはずの多角化した企業の全てがデフレの波に呑み込まれ、ダイエー・グループはたちまち経営難に陥ってしまったのです。
本業すら立ち行かなくなる中、赤字を計上し続ける球団を保有することに株主を始めとして多くの非難が寄せられました。ダイエーは球団売却を検討し、名乗りを挙げる企業もいくつかありましたが、全てが不調に終わりました。
ダイエーの出した条件が、球団に加えて福岡ドームおよび隣接するホテルを合わせたものだったからです。広告宣伝費としての球団だけならばともかく、デフレ経済下でのホテルや施設は所謂箱モノとして多額の負債を抱えていたため敬遠されたのです。この「球団・福岡ドーム・ホテル&リゾート」は「福岡三点セット」と呼ばれ、ダイエーの経営戦略の失敗の代名詞のように扱われました。
親会社がチームに与えた影響 ~工藤と小久保の移籍~
親会社の経営難という不安の中でも、王監督を中心としたホークスナインは奮闘し、Aクラスを維持し続け、2003年には再びリーグ優勝を果たします。
しかし、親会社の影響がチームに全く影響がなかったとは言えません。
99年のリーグ優勝の立役者となった工藤は球団から正当に評価してもらえないという理由で巨人にFA移籍しました。
球団側の主張は登板試合の観客動員数が少ないというものでしたが、工藤はほとんどの試合をその週の初戦となる火曜日に登板していました。首脳陣は連戦の第1戦を工藤で確実に勝利し、その週の戦いを優位に進めたい意図がありました。首脳陣の意向にそって平日の火曜に登板し続けたにもかかわらず、休日である土日の観客数と比較されて低い査定となるのは工藤ならずとも納得がいきません。
さらに03年のオフには、前年まで主力として活躍していた小久保を無償トレードという形で巨人に放出します。選手の動揺は大きく、優勝旅行のボイコットという事件にまで発展しました。
ソフトバンクが球団経営に名乗り ~リーグ・トップの人気球団へ~
2004年末、最終的にホークスを獲得したのはソフトバンクでした。現在に至る楽天、DeNAというIT企業がプロ野球球団を保有する先駆となりました。
「福岡三点セット」は切り離され、ソフトバンクは球団を保有すると同時に福岡ドームの営業権を持つものの、福岡ドームの所有者であるシンガポール政府投資公社傘下の特別目的会社に、20年以上のリース契約をすると同時に48億円とも言われる巨額の使用料を毎年払うことで落ち着きました。
ソフトバンクが払う福岡ドームの使用料は、巨人が東京ドームに払う使用料の2倍以上に相当するとも言われ、大きな負担となっていました。
ソフトバンクは球団との一体運営による集客力向上を目的として、2012年3月に福岡ドームを480億円で買収しました。これにより、12年度は使用料の支出がなくなると同時に、観客動員数も244万人を超えて約6.7%の増加、親会社であるソフトバンク以外の企業からの広告収入も増えて、前年度の2倍を超える営業利益を計上することになりました。
13年度の観客動員数は前年度を下回ったものの、リーグ優勝・クライマックスシリーズ優勝・日本シリーズ優勝を成し遂げた14年は球団新記録となる246万人に達しました。
現在ではパ・リーグ唯一の200万以上の観客を動員できる球団であり、巨人・阪神に次ぐ動員数を記録する屈指の人気球団となったのです。
ホークス一筋の男
ところで、南海に始まり、ダイエー、ソフトバンクとホークス一筋に在籍した選手がいるのをご存知ですか。
実在の人物ではありませんが、水島新司の野球漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武です。「あぶさん」については阪神の記事でも、その名前の由来について触れました。
1973年の連載開始から2014年まで続いた長編で、代打専門の長距離砲からスタートして三冠王を達成、ソフトバンクの助監督まで務めました。その背番号90は、現実の世界のホークスでも永久欠番に相当するとしていまだに誰も背負うことはありません。
「あぶさん」は野村時代以降のホークスを知る上でも、貴重な資料と言えます。
福岡ソフトバンクホークスのオフィシャルサイトです
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この記事のライター
フリーライター。歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。