【プロ野球の歴史】中日ドラゴンズ 〜その優勝と日本一のドラマ〜
プロ野球の創成期に誕生し、大都市・名古屋を本拠地として、大阪の阪神タイガースと同様に熱狂的なファンを持つ中日ドラゴンズ。その長い歴史の中には、優勝と日本一をめぐる数々のドラマがありました。
中京圏唯一のプロ野球球団ですが、実は名古屋を本拠地としていた球団がもうひとつ存在していました。
(本文中は敬称を省略しました)
- 20,841views
- B!
戦前の名古屋には球団が2つもあった?!
2015年7月21日、中日はマツダスタジアムで行われた対広島東洋カープ戦で、通算10,000試合を達成しました。阪神タイガース、オリックスバファローズに次いで3球団目の達成です。記念すべき第1戦は1936年4月29日の甲子園球場、対戦相手は現在消滅した大東京でした。
日本のプロ球団第1号は現在の読売ジャイアンツのはずなのに、と疑問に思われる方も多いでしょう。巨人は36年の春に2回目のアメリカに遠征していました。その関係で、中日や阪神などの方が先に10,000試合に到達することになったのです。
36年当時のチーム名は名古屋軍。親会社は現在の中日新聞の前身のひとつである新愛知新聞でした。
名古屋には名古屋新聞を親会社とした名古屋金鯱(きんこ)軍という球団が、ほぼ同時期に結成されていました。金鯱軍が40年に東京セネタースと合併し消滅するまで、名古屋には2つの球団が併存していたのです。
当時から現在に続く中部圏の活況と、野球に対する強く深い愛情が感じられます。
虎之助さんなのにドラゴンズ?
現在の中日ドラゴンズの名称になるのは1947年です。当時の球団オーナー・杉山虎之助の干支が辰年であったことから、ドラゴンズと名付けられたと『ドラゴンズ50年史』にあります。虎之助さんですから本来ならタイガースでしょうが、既に大阪タイガースが存在していました。オーナーの干支が子年ならラッツ、卯年ならラビッツ、巳年ならスネークス……、と想像するのは考え過ぎですね。
ニヒルなあの俳優は熱狂的なドラゴンズファンだった
1リーグ時代の名古屋軍・中日は優勝することなく、初優勝は2リーグ分裂後の1954年、天知俊一監督の時になります。この年は「フォークボールの神様」と呼ばれる杉下茂が32勝、防御率1.39、奪三振273の投手三冠に輝いてチームを引っ張りました。杉下は最優秀選手も受賞し、翌々年から巨人との日本シリーズで3連覇を達成する三原脩監督率いる西鉄ライオンズを4勝3敗で降し、日本一も達成します。日本シリーズの最高殊勲選手(MVP)も3勝を挙げた杉下でした。
杉下は51年に行われた日本プロ野球初のオールスター戦のMVPも獲得しています。
この頃、名古屋市出身で映画スターを目指していた一人の俳優がいました。彼は中日のファンであったため、苗字を天知監督から、名前を杉下からもらって自ら芸名を付けました。その俳優こそ天知茂です。年輩の方ならば、TVドラマ「非情のライセンス」や明智小五郎といったニヒルな刑事や探偵役の天知茂をご存知でしょう。
巨人のV10を止めたのに……
中日が2回目の優勝を飾るのは1974年。初優勝から20年の歳月が経過していました。与那嶺要監督に率いられた中日は、星野仙一、松本幸行、三沢淳らの投手陣と高木守道、谷沢健一、大島康徳、木俣達彦、マーチンらの打線がかみ合い、全試合終了時点でゲーム差なし、勝率わずか1厘の差で優勝し、巨人のV10を阻止します。
中日の元投手で、タレントに転身した坂東英二が「燃えよドラゴンズ!」を歌ってヒットしたのもこの年のことです。以降、「燃えよドラゴンズ!」は主力選手が変わるたびに選手名や歌詞の一部を変更し、現在に至ります。
この年の中日の優勝はもっと評価されるべきものですが、戦後のスポーツ史、プロ野球史を語る時に、この年のエピソードに中日の優勝が語られることはほとんどありません。
多くの人の記憶に残ったのは、V10を逃した巨人の長嶋茂雄の引退でした。
プロ野球観戦にもうひとつの楽しみを与えた宇野勝
1981年8月26日の巨人戦で、プロ野球に新しいエンターテインメントの可能性を開いた「事件」が起きます。
この試合、先発の星野は巨人打線を寄せつけず、完封ペースの快投を続けていました。
ところが、7回ウラの巨人の攻撃の時、ショート後方に上がったフライを遊撃手の宇野勝が捕球ミスをします。打球は宇野の額に当たると、まるでサッカーのヘディングのように高く跳ね上がり、捕球のため前進していた左翼手・大島の頭上を越えてレフト後方へ転々……。
走者の生還を許し、打者走者も三塁を回って本塁へ突入、間一髪でアウトとなりました。
バックアップのため本塁後方にいた星野はアウトの判定を確認後、グラブをグラウンドに叩きつけて怒りを露わにしました。
このプレーをきっかけに、各TV局がプロ野球選手の失策や、ゲーム中の可笑しげな様子を撮影した場面を集めて放映する「珍プレー・好プレー」という特集番組が多く放送されるようになります。その余波は『プロ野球を10倍楽しく見る方法』というベストセラーや同名の映画のヒットにまで発展しました。
その珍プレーの頂点がこの日の宇野のプレーでした。
実は、このプレーには裏話があります。
当時、巨人は連続試合得点の日本記録を更新中でした。星野が後輩の小松辰雄に、巨人を完封できるのはオレかお前しかいない、と賭けを持ちかけていたのです。この試合の星野は自責点0、失点1の完投勝利。
約1カ月後の9月21日、小松が巨人を完封して、巨人の連続試合得点を止めました。
翌日の新聞には満面の笑みをたたえた小松の写真が掲載されました。
小松辰雄オフィシャルサイト
宇野勝のヘディング事件
オレ流・落合監督が育て上げて常勝球団へ
中日はその後、近藤貞雄監督時代の1982年、星野監督時代の88、99年と優勝しますが、日本シリーズはいずれも敗退します。
球団は、2004年にかつて中日でプレーした落合博満を監督に迎えて命運を託します。
落合は監督就任要請の際に、勝つ喜びを教えてほしい。3年以内でリーグ優勝をしてほしいと球団から言われたと、落合を参謀として支えた森繁和の著書にあります。
落合は球団の期待を遥かに上回り、就任1年目に優勝、3年目にも優勝を果たすのです。
しかし、いずれも日本シリーズには敗れます。
パ・リーグに遅れてクライマックスシリーズ(CS)が採用された07年、リーグ2位ながらCSを勝ち上がった中日は、日本シリーズに進出すると前年敗れた北海道日本ハムファイターズに雪辱し、天知監督の1954年以来となる2度目の日本一に輝きました。
04年から11年まで続いた落合監督体制は、8年すべてAクラス(3位以上)、リーグ優勝4回、日本一1回という華々しい戦績を残しました。
ドラゴンズの懐事情 ~全国紙に匹敵する中日新聞の発行部数と伸び悩む観客動員数~
親会社の発行する中日新聞は、複数県にまたがって発行されるブロック紙としては最大の発行部数を誇り、全国紙と比較しても遜色のない規模を維持しています。東京新聞、北陸中日新聞は中日新聞の系列紙です。
特に愛知・岐阜・三重の3県では、中日新聞は圧倒的なシェアを誇り、岐阜・三重の両県は5割超、愛知県に至っては7割を超えます。
本拠地ナゴヤドームも、ドラゴンズのオーナーが社長を務める中日新聞グループの企業であり、事実上、球団と一体経営を行っています。
ただ、人口の多い中京圏で唯一の球団にもかかわらず、近年のホームゲームの観客動員数は伸び悩んでいます。
常勝のチームを作りながら、落合野球が面白くないから観客数が減っていると言われましたが、高木前監督が指揮を執った2012、13年は、落合元監督の最終年を下回る結果となりました。
巨人、阪神の人気球団の後塵を拝しているばかりか、11年以降は福岡ソフトバンクホークスより少なくなりました。
14年は主催ゲームの動員数が2年振りに200万人を回復したものの、「カープ女子」ブームに沸く広島に激しく追い上げられています。
中日ドラゴンズの公式サイト。試合速報やチームデータ、チケット情報やイベント情報など。
この記事のキーワード
この記事のライター
フリーライター。歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。