【プロ野球の歴史】東京ヤクルトスワローズ ~どん底からの日本一~
東京ヤクルトスワローズは野村克也が監督を務めた1990年から98年の9年間に優勝4回、日本一3回を達成し、黄金時代を築きます。
この間のことは野村をはじめとする多くの著書があり、ご存知の方も多いでしょうから、今回はそれより以前の球団の歴史と、現在から将来への課題について見ていきます。
(本文中、敬称は略しました)
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国鉄スワローズからヤクルトアトムズへ
チーム名が現在の東京ヤクルトスワローズになるのは2006年のことです。
その起源は2リーグ分立時に新規参入した国鉄スワローズになります。当時の国鉄の特急電車の名称「つばめ」からチーム名はスワローズとなりました。
「つばめ」の名称は、現在九州新幹線に使用されていますね。
横浜DeNAベイスターズの記事の際にもご紹介したように、国鉄も球団設立から長い期間、低迷します。この間、チームの大黒柱、というよりは一枚看板で支えたのが、後に前人未到の通算400勝を達成する金田正一でした。
1963年からは産経新聞を主体とするフジサンケイグループが親会社に加わりました。しかし、64年オフに金田が、現在のFA制度の前身とも言える10年選手制度を利用して読売ジャイアンツに移籍すると、国鉄は球団経営権のすべてをサンケイ新聞とフジテレビに譲渡、チーム名もサンケイスワローズとなりました。
さらに65年にはスワローズというチーム名を、手塚治虫の人気マンガ「鉄腕アトム」からとってサンケイアトムズに変更します。
そして70年にはヤクルトが筆頭株主となり、ヤクルトアトムズに改称します。
ところが、この70年こそヤクルトにとってはどん底の年であり、同時にすべてのスタートの年になるのです。
1970年・どん底からのスタート
この年のヤクルトの戦績は33勝92敗5分け。優勝した読売ジャイアンツから45.5ゲームという大差で最下位となりました。5位中日にも22ゲーム差をつけられています。
勝率は.264。試合数が異なるとはいえ、この数字は深刻です。
辛うじて2リーグ分立後の最低勝率である1958年の近鉄パールズ(現オリックス・バファローズ)の.238や、日本プロ野球史上唯一の100敗を記録した1961年の近鉄バファローズの.261は上回ったものの、勝率が低いことで大洋に吸収合併された1952年の松竹ロビンスの.288を下回っているのです。
近年で印象に残る2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが創設1年目に記録した.281や、2004年の横浜の.324を下回っています。
さらに当時としてはタイ記録となる16連敗を記録。プロ野球記録である1998年の千葉ロッテマリーンズの18連敗には引分が含まれており、引分を含まない連敗記録としては現在でもワースト記録です。
投手陣を見るとチーム最多勝投手が6勝。チーム防御率3.78はこの年のセ・リーグ最低のものです。
これより深刻なのが打撃陣で、3割打者なし、チーム最高打率は後に監督を務める武上四郎の.265、チーム打率に至っては.215。
これでは、投げ勝つことも打ち勝つこともできません。
しかし、ヤクルトはこのどん底からチームを再建していくのです。
再スタート、再建、挫折、そして再建
まず球団が打った手は、西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)や大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)を優勝・日本一に導いた智将・三原脩を監督に招聘することでした。同時に、西鉄の黄金時代を支え、怪童と呼ばれた中西太を打撃コーチとして迎えます。
71年こそ2年連続の最下位に終わったものの、後にエースとして日本一の立役者となる松岡弘が開花、前年の4勝を大きく上回る14勝を挙げます。
翌72年には中西の指導を受けた若松勉が首位打者を獲得、また、この年に社会人からヤクルト入りした安田猛が最優秀防御率のタイトルと新人王を獲得します。チームも最下位を脱出し、4位になりました。
三原は翌73年まで采配を振るいますが、2年連続4位の責任をとって辞任します。
シーズン終了後、チーム名を再びスワローズに戻します。
三原監督時代に育ち始めた芽は着実に成長していました。王貞治を育てた荒川博を監督に、広岡達朗をコーチに迎え入れた74年は勝率5割にこそ届かなかったものの13年振りのAクラス・3位に躍進します。
75年からの2年は再びBクラスに甘んじますが、76年途中から広岡が監督に昇格、77年には球団創設以来初となる2位へ躍進するのです。
29年目の念願の初優勝、そして日本一へ
そして78年、初優勝を目指すヤクルトは、3連覇を狙う巨人とシーズン序盤から熾烈な首位争いを繰り広げます。終盤には広島東洋カープも加わった三つ巴の戦いとなりますが、投手陣では松岡、安田に加えて鈴木康二朗、井原慎一朗の4人が2ケタ勝利を挙げ、打撃陣も若松を筆頭に大杉勝男、杉浦亨、さらにはマニエル、ヒルトンの両外国人選手の活躍もあり、粘る両チームを振り切って、念願の初優勝を果たします。
初進出となる日本シリーズでは、シリーズ3連覇中の阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)と対戦。第4戦では9回2死からヒルトンの劇的な逆転2ラン本塁打で勝利するなど、激戦を勝ち抜き4勝3敗で日本一を達成するのです。
70年のどん底の際に在籍していた松岡、井原、捕手の大矢明彦などにとっては感慨深い日本一となりました。
スワローズが抱える課題
球団経営の観点からすると、親会社であるヤクルトにとって球団を保有することは充分な宣伝効果となっています。
しかし、課題がない訳ではありません。
ひとつは本拠地・神宮球場です。
一般に神宮球場と呼ばれますが、正式名称は明治神宮野球場、所有者は明治神宮です。球団は球場の営業権を保有していません。スワローズもまた横浜などと同様に入場料収入のみが試合開催時の収入源なのです。
さらに神宮球場は東京六大学リーグの聖地であり、東京六大学はスワローズのみならずプロ野球より長い歴史を持ちます。そのため、東京六大学や東都大学リーグが開催される期間は大学野球が優先されます。
ご紹介した1978年の日本シリーズも、当時はデーゲームで行われていたため、ヤクルトの主催ゲームは後楽園球場(巨人の本拠地、現在の東京ドームの前身)で行われました。
春や秋の土日祝日に他球場の試合がデーゲームなのに対して、神宮のヤクルト戦だけがナイター開催というのは、こうした事情によるものです。
もうひとつは本拠地とする東京に、12球団一の圧倒的人気を誇る巨人がいることです。特定チームのファンでない人が野球観戦をする場合に、東京ドームと神宮球場で試合が開催されているとしたら、ドーム球場で天候に影響なく開催され、夏の暑さも軽減され、娯楽施設も併設されて人気もある巨人戦を選ぶ可能性が高いと言えます。
日本野球機構(NPB)が発表した数値によれば、2010年以降、スワローズの主催ゲームの1試合平均入場者数は2万人に届いていません。年間入場者数も12年までは130万人台、13、14年は140万人を突破しますが、この2年は社会現象になった「カープ女子」の恩恵を多分に受けており、広島戦の入場者数は1試合平均2万人を超え、巨人戦や阪神戦を上回る年もあります。
14年にはついに年間入場者数でセ・リーグ最下位、12球団中9位に転落しました。
首都圏東京に本拠地を持ちながらの数値だけに、観客増につながる手段を講じる必要があります。
明治神宮野球場では、プロやアマチュアを問わず、年間約500を超える多くの試合やイベントが開催されています。
東京ヤクルトスワローズ公式サイト。試合速報やスケジュール、チケット情報、イベント情報、ファンクラブ案内、グッズ情報、チームや選手の最新情報を掲載しています。
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フリーライター。歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。