【プロ野球の歴史】阪神タイガースのスター選手たち
読売ジャイアンツに続き誕生したのが大阪タイガース、現在の阪神タイガースです。タイガースの名称は、大阪の姉妹都市である米・デトロイトを本拠地とする大リーグ球団のデトロイト・タイガースにあやかったと言われています。
巨人に次ぐ人気球団であり、数々の名選手と記憶に残る名場面を生み出しました。
(本文中、敬称は略しました)
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「伝統の一戦」のルーツは真冬の下町・深川だった
阪神対巨人戦を伝統の一戦と呼びますが、その起源は日本プロ野球初のリーグ戦として開催された1936年秋のリーグ戦で、両チームの間に行われた優勝決定戦3連戦です。
行われたのは東京の下町・深川にあった洲崎球場。現在は石碑が往時を偲ばせる唯一のものとなりました。
洲崎球場は東京湾に面していたので、場外ホームランを打った選手は、「太平洋にホームランを打ち込んだ」と豪語したと言われています。
優勝決定戦の初戦が行われたのは12月9日。気温は2度と記録されています。この3連戦は、巨人が沢村栄治の3連投の活躍もあり、2勝1敗で優勝し、以降、阪神対巨人戦は伝統の一戦と称されるようになるのです。
元祖二刀流・景浦将
巨人に沢村というヒーローがいたように、この時期の阪神の中心選手は景浦将でした。
景浦は36年の優勝決定戦の1、3試合に先発、初戦では沢村から場外ホームランを放っています。この日の景浦の打順は5番。
現在、北海道日本ハムファイターズの大谷翔平が二刀流と呼ばれていますが、試合数も環境も異なるとはいえ、プロ野球の黎明期に元祖二刀流とも言うべき選手が存在していたのです。
景浦は36年秋のリーグで、6勝0敗、勝率10割のプロ野球記録、防御率0.79で最優秀防御率のタイトルを獲得、翌37年秋には首位打者になり、打点王も2回獲得しています。
沢村と同様に、景浦も太平洋戦争末期に招集され、1945年5月にフィリピンで戦死しました。
景浦という名前でお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、水島新司の『あぶさん』の主人公・景浦安武のモデルの一人とも言われています。
ミスター・タイガースの軌跡 ~藤村富美男と村山実~
戦前から戦中、戦後の1リーグ時代を経て2リーグ分立以降まで長きにわたって活躍した阪神の選手と言えば、「物干し竿」と呼ばれる長いバットで長打を量産した藤村富美男です。ミスター・タイガースと呼ばれたのは、藤村が初代であると言われます。
景浦と同じく、投手としても活躍する二刀流の選手でもありました。さらに1946年と55年~57年の二期にわたり監督も務めました。しかも、この時期の藤村は現役であり、選手兼任監督でした。
選手として出場していない時の監督・藤村は三塁コーチャーズ・ボックスに立ち、ここぞという場面では自ら代打として打席に立ちました。
ヤクルト・スワローズの古田敦也が選手兼任監督を務めていた頃、「代打オレ」が話題になりましたが、その始まりは藤村だったのです。もっとも藤村は広島出身であったため、「代打ワシ」だったと言われています。
藤村に続き、ミスター・タイガースと呼ばれたのは村山実です。村山もまた1970年~72年と88・89年の二期にわたり監督を務め、一期目は藤村同様に選手兼任でした。
ザトペック投法と呼ばれる全身を使ったフォームから速球・フォークを武器に、V9時代の読売ジャイアンツに真っ向から立ち向かった阪神のエースです。特に長嶋茂雄との対決は、いくつもの名シーンとして残っていますが、その最大のものは昭和天皇が初めて野球観戦をされた所謂天覧試合で、長嶋にサヨナラ本塁打を打たれています。
村山はこの時の本塁打を、生涯冗談交じりに、あれはファウルやった、と口にしていました。
村山は2リーグ分立以降、大学卒の投手として初めての200勝投手になりました。また、1970年には防御率0.98を記録、戦後唯一の0点台の防御率です。
藤村の背番号10と村山の11は、阪神の永久欠番となっています。
誇り高き左腕 日本の奪三振王・江夏豊
村山とほぼ同じ時期に阪神で活躍し、村山vs長嶋に引けをとらない名勝負を繰り広げたのが江夏豊vs王貞治の対決です。世界のホームラン王・王に最も本塁打を打たれたのは江夏ですが、江夏もその王から大記録を挙げています。
それが1968年のシーズン奪三振記録です。
従来の記録である稲尾和久の354奪三振を塗り替える記録を、江夏は王から奪うことを意図しました。そして、公言通り王から三振を奪い、稲尾の記録に並びます。ところが、江夏は新記録を王から奪うつもりでいたため、困ってしまうことになります。ここからが江夏の真骨頂です。江夏は次の王の打席までの8人の打者からあえて三振を奪わずに凡打の山を築かせます。8人の中には投手も含まれているのですから、江夏も相当に苦労したと語っています。そして、再び王との対決で三振を奪います。つまり、タイ記録と新記録の両方を王から奪った、という訳です。
江夏のこの年の奪三振数は401。
前述の通り稲尾の最高記録は354、400勝投手・金田正一は350、ミスターKと呼ばれた野茂英雄は287、平成の怪物・松坂大輔は226、ダルビッシュ有が276。
江夏の数字がいかに桁違いのものかがわかります。
1971年のオール・スターではパ・リーグの強打者を相手に9者連続奪三振を記録しました。
世界の王を止めた! 六大学のスター田淵幸一
江夏とともに黄金バッテリーと称されたのが田淵幸一でした。当時の東京六大学野球の最多本塁打記録22本を放ち、山本浩二・富田勝とともに「法政三羽ガラス」と呼ばれて阪神入りした田淵は、背番号22を背多い、1年目に背番号と大学時代の自身の記録と同じ22本の本塁打を記録して新人王を獲得します。
1975年には62年から13年続いていた王の連続本塁打王を阻止、自身初の本塁打王になります。奇しくも73・74年と2年連続三冠王の王から首位打者のタイトルを奪ったのも三羽ガラスの一人・広島東洋カープの山本浩二でした。
バースだ! 掛布だ! 岡田だ! バックスクリーン3連発だ!!
1985年、阪神は1964年以来の優勝を飾ります。
この年の象徴的な試合は、甲子園球場で行われた4月17日の巨人戦。史上最強の助っ人と呼ばれた3番・バースがバックスリーンに本塁打を放つと、4番・掛布雅之、5番・岡田彰布もバッククリーンにホームランを叩きこんだのです。阪神の球団史を語る上では、欠かすことのできない名シーンとなりました。
バースはこの年から2年連続の三冠王を獲得しました。
西武ライオンズとの日本シリーズにも優勝し、球団史上初の日本一にもなりました。西武ライオンズ球場(現西武プリンスドーム)で行われた最終戦で日本一を決定すると、応援に駆けつけた阪神ファンが西武鉄道の電車内で応援歌の六甲おろしを大合唱し、大阪ではファンが道頓堀に飛び込むなど、大フィーバーに沸きました。
最も経営的に安定した球団
阪神のホーム・グラウンドと言えば、もちろん甲子園球場ですが、甲子園球場も親会社である阪神電鉄が所有しており、営業権も阪神電鉄が保有しています。甲子園への交通機関のアクセスも阪神電鉄または阪神バスを利用することになり、収益の面では非常に安定した球団です。
さらに、熱狂的なファンに支えられ、収容人員47,000を超える甲子園には人気カードともなればほぼ満席、この数年も1試合平均38.000~40,000人の集客力を誇り、年間の観客数も2010年の300万人から微減しているとはいえ、常に270万人以上を動員しています。
阪神タイガースの球団オフィシャルサイト。試合速報や選手名鑑、チケット情報、グッズの販売など。
阪神甲子園球場の公式サイトです。
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フリーライター。歴史・文学からビジネス、スポーツ等、幅広い分野において執筆を行う。