【クラシック入門ピアノ編】ショパンの名曲・有名曲珠玉の10選
ショパンは「ピアノの詩人」といわれ、美しい名曲がたくさんあります。どれも洗練され、聴く人の印象に強く残るものばかりです。今回は特に有名な作品の中から、作曲年代順に10曲ご紹介します。
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フレデリック・ショパンという作曲家
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フレデリック・ショパンは1810年にポーランドで生まれました。父親はフランス人、母親はポーランド人で貴族の出でありピアノを上手に弾いていたようです。ショパンもピアノの天才児として早くから知られていました。ワルシャワで音楽の勉強をしたあと20歳で海外へ勉強や演奏を兼ねて出国したあとは、一度も祖国に戻ることはありませんでした。ショパンの生涯を知る上で、キーワードがいくつかあります。「肺の病気」「祖国ポーランド」「婚約者マリア・ヴォジンスカ」「恋人ジョルジュ・サンド」「ノクターン」「パリ」です。
これらは、ショパンの作曲と深く結びついています。ご紹介していく曲と共に、作曲された時の背景をお伝えします。ただ、作曲の年代については難しいものがあり、研究者による推定です。ショパンは、ひとつの作品に何年もかけることがあったため、着手と完成は必ずしも同じではありません。また作品番号も後日発見されたものなどもあり、若い時代の作曲であっても後の方の番号であることもあります。
別れの曲 作品10の3 エチュードより 1829年~1832年
この曲は別れの曲として有名です。日本人はこの曲に特別な思いがある気がします。なぜなら、この別れの曲という名前は1934年の同名のドイツ映画によるものですが、そのまま呼ばれ続け定着してしまったからなのです。このメロディには何か和風な雰囲気が漂い、わたしたちに郷愁のようなものを感じさせるのかもしれません。
余談ですが、ショパンは生涯を通じてあまり作品に題名をつけることをせず、むしろ嫌っていた気配があります。曲を聴いた人がそれぞれ何を想像するのか、押し付けないという考え方はブラームスなど一部の作曲家も同様です。他にも曲に題名がついたものがありますが、当時の出版社が楽譜を売りやすくするためにつけることがよくあったといわれます。
また、エチュードという名前は日本語では「練習曲」です。ここで勘違いすることがあるのですが、練習するための曲という意味ではありません。本来なら「技巧曲」と訳す方が合っていると感じます。技巧の限りを尽くした曲という意味になり、「非情に難しい」「ピアニストのテクニックを披露する」曲とお考えください。
1829年はショパンは19歳の時で、ワルシャワ音楽院を卒業し初恋の相手に告白し、ウィーンでコンサートをを開き、そしてピアノ協奏曲第二番(第一番ではありません)の作曲にも着手しています。何もかもが順調で希望に満ちた青春といえます。動画でご紹介していますピアニストは、アルフレッド・コルトー(1877年~1962年)です。ショパンの楽譜の校訂出版のコルトー版という楽譜で知られています。
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革命 作品10の12 エチュードより 1829年~1832年
1829年はショパンが19歳の時ですが、この頃からショパンの独自の語法による作品がたくさん書かれています。現在から見てもショパンの代表的な作品であるエチュードが、この時期に書かれ始めたことは、彼がいかに天才であったかを示しています。エチュードの出版は1833年ですのでそれまでに推敲を重ねたと思われますが、それでも23歳までに自分らしい音、個性をすでに発見していたことになるのです。
この革命のエチュードは、やはり後日題名をつけられたものでショパンがつけたものではないといわれています。当時のポーランドの情勢はロシアの支配から逃れるための独立運動とワルシャワ陥落という事情があり、そのことを海外から知ったショパンは深く傷つき、心情を曲で表したといわれていました。激しい動きの左手の伴奏部が激情を示し、最後まで怒りと悲しみが納まることはありません。動画はロシアの巨匠スヴャトスラフ・リヒテル(1915年~1997年)の演奏でお聴きください。
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ノクターン嬰ハ短調 作品番号なし 1830年
この曲は昨今特に有名になりました。その理由は2002年公開の映画「戦場のピアニスト」というアカデミー賞受賞作で使用されたことによります。主人公のポーランドのピアニストのウワディスワフ・シュピルマンが第二次世界大戦中に体験した実話です。彼はユダヤ人であったため、収容所送りとなるところを間一髪で助かり、更にドイツ人将校にも命を助けられます。廃墟となった屋敷の暗がりの中で弾くショパンの曲が感動的でした。
ところで、この曲の原題は「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(ゆっくりと表情豊かに)であり、ショパンが姉のルドヴィカのために書いたものです。自作の協奏曲第二番を練習するための曲で、生前の出版はされていません。出版は1875年で、ルドヴィカが残した「夜想曲風の」というファイルからそのまま題名が付けられました。悲しくつぶやくように進むメロディは、時折なぐさめるように微笑み返します。この映画のイメージと重なり涙を誘っていました。
動画は戦後ピアニストとして再び戻ったシュピルマン自身のピアノでどうぞお聴きください。
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ピアノ協奏曲第一番 作品11 1930年
ショパンは、ピアノ協奏曲を二曲書いています。そのうち、この第一番ホ短調の方が有名です。実は、作曲は第二番の方が先に書かれたのですが、出版の順番により番号が逆になっています。出だし部分や中間部のメロディは映画などでもよく利用されますのでお聴きになったことがあるかもしれません。ショパンの初期の円熟した作品のひとつです。
ところで、この頃すでにショパンはオーケストラ曲を書くことを捨ててしまったといわれています。他の楽器はショパンにとってピアノを魅力的にみせる道具と考えていたようです。ショパンにとってピアノは唯一の音楽表現の楽器だったのでしょう。動画の演奏者はモーリス・ローゼンタール(1862年~1946年)で、ショパンの孫弟子にあたります。
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ノクターン 作品9の2 1830年~1831年
ノクターンは、邦訳では「夜想曲」です。このノクターンという曲のスタイルはジョン・フィールド(1782年生まれのアイルランド人)が始めたといわれています。右手で演奏されるメロディは、美しく装飾がなされ繊細なレース模様のような優雅な雰囲気に満ちたものです。ショパンは、このノクターンの様式をとても好み、晩年まで作曲を残しています。おそらくノクターンはショパンにとって特別な意味があったと思われます。
ご紹介しています「ノクターン作品9の2」はその中でも一番有名なものです。1830年はショパンが祖国をはなれた年で、翌年はウィーンにいました。しかし、ショパンは歓迎されなかったようです。当時のオーストリアはロシアよりの立場であり、ポーランド分割を望んでいました。そのような政治的な事情でポーランド人に対して冷たかったことがあります。また、シュトラウスなどのウィンナーワルツが流行中で、ショパンの音楽はかけ離れていて理解がされなかったということなのでしょう。
動画の演奏は、ラウル・コチャルスキ(1885年~1948年)です。彼はショパンの弟子のカール・ミクリ(1816年~1897年)の弟子で、ショパンの演奏の後継者としてミクリがショパンメソッドを教えた人です。しかし、その演奏は現代のピアニストが弾くショパンの曲の演奏とはかなり印象が違うのではないでしょうか。あまり肯定的に捉えない人もいますが、ショパンの直系の孫弟子でありますので演奏はかなり受け継いでいるといってよいでしょう。
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幻想即興曲 作品66 1834年
幻想即興曲はショパンの曲の代表として一番にあげられる曲のひとつです。しかし、生前に出版されたものではありませんでした。その理由は、他の作曲家の作品の類似や盗作の疑いを招くことを避けたかったといわれています。また、ショパンのこの時期の作品としては、凡庸な感じがするのです。そのことは友人への遺言に「この作品を焼却処分するように」とあることからも想像ができます。
おそらくショパンはこの作品の完成度の低いことを気にしていたと考えますが、200年後に幻想即興曲はもっとも有名な曲になるなど想像もしなかったでしょう。1834年はショパンがパリでビューを果たし、上流社会のサロンでの演奏、リストや著名な人々との交流など順風満帆の年です。動画は、ショパン演奏で名高い巨匠アルトゥール・ルビンシュタイン(1887年~1982年)の演奏です。
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雨だれ 作品28の15 24のプレリュードより 1836年~1839年
1836年はショパンは絶頂期にありました。ポーランド時代からの知り合いである貴族の娘マリア・ヴォジンスカという女性への求婚もそのひとつです。パリを拠点にチェコ、ドイツなどに演奏旅行をするなど幸福の中にいました。しかし、翌年1837年にはマリアとの縁談は破談となり、同年に積極的にアプローチをしてくる女流売れっ子作家のジョルジュ・サンドに折れる形で恋愛関係になります。
ジョルジュ・サンドは、当時「男装の麗人」として、また大衆小説家として知名度があったですが、ある貴族の落とし子で、莫大な遺産もあり悠々自適な立場にありました。それに対してショパンは肺病で、ピアニストとしての名声はありますが将来の不安やマリアとの破局もあり心理的に弱くなっていたのでしょう。サンドの保護の下、作曲活動に専念することができると考えたかもしれません。
この曲は1838年に、ショパンとサンドがマヨルカ島で過ごす間に書かれたものです。サンドがショパンの健康を考え、南の暖かい気候の島で過ごすことを提案したのですが、運悪く天候の悪化と長旅はショパンの健康に逆効果となったようです。また、結婚をしていない男女の旅行は当時としてはかなり不道徳とされ、結核に対しての恐怖などもあり宿を追い出されてしまいます。
冷たく居心地の悪い僧院で過ごすことになったのですが、その滞在中にひどい嵐となり、この曲は僧院のピアノにより生み出されることとなりました。動画の演奏はショパン演奏で定評のあるサンソン・フランソワ(1924年~1970年)です。
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葬送 作品35 ソナタより 1839年
ショパンはソナタを三曲書いています。ソナタというのは形式のことで、ベートーベンなど古典派の作曲家が好んで用いたものです。それ以降の作曲家にとってのソナタというのは、単なる形式の話ではなく、重要な位置づけがされているといってよいと思います。自身の作曲の集大成として10番までをまとめて出版するなどは、大きな意味合いを持ちます。
ショパンは三曲のみですが、この二番は特殊なものです。ソナタはだいたい3楽章で構成され、1楽章と3楽章はソナタ形式ですが、ショパンのこの曲は葬送行進曲が付いています。また、最終楽章はフィナーレとして両手を揃え「荒野の中を突風が吹き去る」といった感じの奇妙な終わり方です。
1839年はパリのサンドの屋敷に戻り、次々に名曲を生み出しています。ショパンが落ち着いて音楽に取り組むことができた時期といえるでしょう。動画の演奏はイタリアの巨匠ベネディッティ・ミケランジェリ(1920年~1995年)です。
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英雄ポロネーズ 作品53 1842年
英雄ポロネーズは、ショパンにとっては祖国ポーランドへの想いを込めた特別な曲です。1830年に祖国を離れて「芸術家を自由に受け入れてくれるパリ」でショパンは作曲の才能を開花させましたが、「亡命ポーランド人」として常に祖国のことを思っていたようです。
サンドの屋敷ノアンでの生活は、ショパンの肺の病による喀血はあるものの、経済的な心配はなく次々に円熟期の傑作を生み出すことができたといえます。この英雄ポロネーズは、軍隊が遠くから太鼓を打ちながら行進してくる様子が描かれています。動画の演奏は、ロシアの最後のロマン派といわれる巨匠ウラジーミル・ホロヴィッツ(1904年~1989年)です。
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小犬のワルツ 作品64の1 1846年~1847年
ショパンはワルツを人生の中で長期に渡り書き残しました。ワルツで有名なものとして「華麗なる大ワルツ」「別れのワルツ」などもありますが、この「小犬のワルツ」は終始明るく軽快で楽しい曲です。サンドの屋敷で、小犬が自分の尻尾を追ってクルクルと回る様子を見て作曲したといわれています。しかし、音楽の楽しさとは逆に、サンドとの不和と別離が1847年に起こっています。
サンドとの別れは精神的にも経済的にもショパンに打撃となり、その後イギリスの演奏旅行も健康を更に悪くさせることとなりました。サンドと別れた2年後に姉のルドヴィカなど大勢の人に看取られてこの世を去っています。享年39歳でした。彼のデスマスクとペール・ラシェーズ墓地の「小鳥を抱く少女」は、サンドの娘の夫クレザンジェによって作られました。
動画の演奏は、伝説的な名ピアニスト、ヨーゼフ・ホフマン(1876年~1957年)によるものです。どうぞお聴きください。
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ショパンの一生の分かれ道
ショパンの心臓は遺言により姉がポーランドに持ち帰っています。また、心臓は第二次大戦中にロシア政府に持ち去られましたが後日変換されています。近年の「目視」による「心臓の状況の確認」ではショパンの死因は「結核ではない可能性がある」と結論されました。
ショパンの一生を振り返ると、ジョルジュ・サンドの影響は大きいといえます。サンドについては、現在は賛否両論分かれています。結果的にはサンドの手厚い保護により作曲ができる環境を10年間得られたといえますが、もしマリア・ヴォジンスカと結婚できていたら温かい家庭と落ち着いた暮らしがあったのかもしれません。ショパンの曲を聴くとき、そういったことを考えますが、どのようにお聴きになったでしょうか。
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この記事のライター
検査技師をしておりました。現在は家庭に入り、ライター、アンティークドールのディーラー、人形関連の制作と売買、ピアノ講師などをしています。趣味の薔薇や犬、鳥の世話と夫と子供の世話に忙しい毎日です。