志賀直哉の生涯とお勧め作品10選
志賀直哉は武者小路実篤と並んで「白樺派」を代表する作家です。写実の名手として、無駄のない文章で対象を的確に描写した文体が高く評価されており、「小説の神様」とも呼ばれています。また、ほぼ全ての作品が短編で、手に取りやすいのも魅力の一つ。ここでは、志賀直哉の経歴と、おすすめの作品についてご紹介していきます。
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アイキャッチ画像出典:commons.wikimedia.org
作家来歴
幼年時代
志賀直哉は1883年(明治16年)2月26日生まれです。宮城県石巻生まれの東京育ち。実は、すぐ上にいた兄が直哉の生まれる前年に夭逝しており、都内に住んでいた祖父母らが、次の跡取りこそは手元で大事に育てようと思ったのか、息子一家を呼び寄せたのでした。
その祖父である直道は当時相馬家の家令を務めており、転居先は旧藩邸のあった現在の千代田区内幸町。直哉は都内でも有数の山の手地区で、祖父母の寵愛を受けて幼少期を過ごし、学習院初等科に入学、同学校で中等科、高等科へと進学していきました。
この間、12歳の時に悪阻の重かった母が亡くなり、それから3か月も経たないうちに父が再婚しました。この出来事は、後に『母の死と新しい母』の中で回顧されています。
学生時代
中等科時代、直哉のその後に関わる大きな出来事が2つありました。
一つは、足尾銅山の鉱毒事件を契機とした父との対立です。
当時、日本初の公害問題に沸騰する世論に同調し、若き直哉も友人と共に足尾へ現地視察への旅を企てたのですが、これに父親の猛反対を受けました。背景には、直哉の祖父がかつての銅山経営陣の一人であったことがあったようなのですが、ともかく、この前後から志賀家の父子関係は次第に悪化していくようになりました。
もう一つは2度に及ぶ落第です。
原因は作家自身の回想によれば「不真面目な授業態度によるもの」だったようです。
しかし、この2度にわたる留年で、直哉は武者小路実篤など、後の雑誌『白樺』の主要創設メンバーらと同級生になったのです。
中等科卒業後、学習院高等科を経て直哉は東京帝国大学へ進学しました。当初は英文科に在籍し、後に国文学科に転科しましたが、学籍を置いていたのは徴兵猶予のためだけというくらいで殆ど出席をせず、やがて正式に退学してしまいました。
作家としての歩みと、父との対立
大学退学と同年の1910年、直哉は武者小路実篤らと雑誌「白樺」を創刊しました。この誌面上で、彼は『網走まで』を始めとし、次々と短編を発表していきます。作家としての活躍のスタートです。
一方、家庭での父との不和は相変わらずでした。中等科時代より渦巻いていた父子の軋轢は、大学在学中に生じた、家の女中との結婚を巡る対立で更に一段階深まりました。こじれる一方の関係の中、直哉は29歳の時、とうとう家を飛び出して、広島県の尾道に独り仮住まいをすることになりました。少年清兵衛と、息子の気持ちに無理解な父親が登場する『清兵衛と瓢箪』は、この頃に執筆されています。
そんな中、恩師でもある夏目漱石から新聞への小説連載を紹介され、喜んで引き受けた直哉でしたが、筆が進まずに結局連載を辞退する羽目に陥りました。その不義理を苦にして、彼は1914年(大正3年)より3年ほど、休筆期間を迎えます。
その同年、彼は盟友でもある武者小路実篤の従妹、勘解由小路康子と結婚しました。しかし、この結婚を巡っても父子は対立。とうとう直哉は父の家から離籍をするに至りました。
尾道市の志賀直哉旧居と暗夜行路石碑。
現在は「おのみち文学の館」として保存されています。
和解から、円熟期へ
1917年(大正6年)より、再び直哉が創作活動を始めた年、積年にわたる父との不和もついに解消に至りました。その陰には、双方をとりなす直哉の義理母の粘り強い努力があったようです。この出来事の喜びと興奮とで、直哉はそれからわずか半月で中編『和解』を書き上げたといいます。
心のわだかまりが解けて落ち着いた気持になったのでしょうか、ここから10年余りが作家・志賀直哉の円熟期とされています。短編で言えば『小僧の神様』、『焚火』、『真鶴』また、唯一の長編『暗夜行路』(前編)も、この期間に一気に執筆されています。
戦中~戦後まで
合間に何度か休止期間を挟みながら、雑誌「改造」上で長編『暗夜行路』が完結したのは1937年(昭和12年)、間もなく時代は太平洋戦争へと向かい、直哉も再び休筆に入りました。
活動再開後の1947年(昭和22年)には日本ペンクラブ会長に就任、1949年(昭和24年)には文化勲章を受章しましたが、作家としては次第に寡作になっていきます。やがて88歳になった1971年(昭和46年)11月21日、東京都世田谷区の関東中央病院で、肺炎と老衰により亡くなりました。
なお、直哉は学生時代、内村鑑三に傾倒したことがあったものの、終生「無神論者」で通しており、葬儀も本人の遺志によって無宗教で執り行われました。
また、「作家は作品がすべて」という信念を尊重し、「偲ぶ会」、「直哉忌」といった集まりは一切行わないよう、遺族や弟子たちの間で申し合わせたそうです。
晩年の志賀直哉像
初期の短編より ―『或る朝』・『網走まで』・『清兵衛と瓢箪』・『剃刀』―
志賀直哉の第1期、25歳から32歳頃までの作品です。
文学を志し始めた若者の野心の表れか、作風としては最もバリエーションに富んでいます。
『或る朝』
志賀直哉は、自身の処女作として3つの作品を挙げていますが、この『或る朝』もそのうちの一つ。理由は、作者自身が「多少なりともものになった最初の作品」と考えているからだということです。
物語は「私」が祖父の三回忌の朝、些細なきっかけで祖母との衝突し、程なく仲直りするまでの経緯を語ったもの。
臆面もなく不満をぶつけた相手に、まだまだ呪い足りないとばかり後から続々と仄暗い想いが湧いて出てきたり、そんなドロドロした負の感情がいともあっさり収束してしまったりするのは、相手が親しい身内であってこそ。そんな両端に揺れ動く情動が、ほんの日常の一コマの中に鮮やかに描き出されています。
『網走まで』
こちらは「初めて世間に発表された」、という意味で処女作に挙げられた作品です。ちなみに、1910年(明治43年)の「白樺」創刊号に掲載されています。
描かれているのは「私」が汽車で宇都宮へ行く道中、たまたま同席となった母子とのつかの間の交流。
例えば、信号待ちの横断歩道でたまたま隣に並んでいるような、行き会いの見知らぬ誰の生涯について、その場限りの余計な興味を抱いたり、想像してみたりしたことはありませんか?そんな一瞬の心の動きを見逃さずにスケッチした作品です。
『清兵衛と瓢箪(ひょうたん)』
12歳の少年、清兵衛が熱中していたのは瓢箪でした。
小遣いで気に入った形の瓢箪を買ってきては、それを大事に手入れしていたのです。ところが、それを理解できない教師や父親によって、心血を注いだコレクションは没収され、打ち壊されてしまうのでした。
けれども、次に絵を描くことに夢中になったおかげで、清兵衛の中には瓢箪を奪われたことを怨む気持ちは残りませんでした。
ただ一つ、父がこの趣味にまで小言を言いだすようになってきたのが気がかりなのですが・・・。
小説家としての生き方を父に否定された作者が、家を飛び出して尾道で独り暮らしを頃に執筆された作品です。純真無垢な少年が芸術に没頭する美しい物語ですが、同時に父親への反抗心ががっちり織り込まれているのも読み取れることでしょう。
『剃刀』
床屋の芳三郎は少し神経質なところもありましたが、腕は確かで、これまで客の顔に一度たりとも傷をつけたことが無いのが自慢でした。そんな彼がある時、ほんの僅かな手違いから、客の肌に傷を作ってしまいます。滲み出た小さな血の球を見つめているうちに、芳三郎は思わず持っていた剃刀を逆手に持ち替えて、そのまま・・・。
克明な描写に思わず自分の喉元を押さえたくなる、ちょっと背筋がゾクッとする作品です。
これを読んでしまうと、床屋さんで無防備に顔剃りをお願いするのが怖くなってしまうかも。
中期の短編より ―『小僧の神様』・『城の崎にて』・『転生』―
『城の崎にて』、『小僧の神様』などの代表作が生み出された作家としての成熟期です。
1917年(大正6年)、作者の人生の節目である「父との和解」も、この間に迎えています。
『小僧の神様』
寿司屋で小遣いが足りずにしょげ返る小僧を見かけたある男が、小僧がたらふく寿司を食べられるようこっそり図らってやりました。夢のような出来事は、神様か、それに近い存在の御業だったかもしれないと信じ始める小僧。一方、寿司を振舞った男は、たしかに善いことを行ったはずなのに、変に淋しい気持ちに囚われてしまいます。
最後にぽろりと漏れ出る作者の一言にまで小僧に対する優しい眼差しに溢れた、心がほっと温かくなるような物語です。
『城の崎にて』
1913年(大正2年)、山手線に撥ねられた直哉は重傷を負って、入院生活の後、療養のため兵庫県の城崎温泉に赴くことになりました。この滞在中に、彼は続けて蜂、鼠、イモリの死の場面に出会います。
これらの小動物の死と、大事故に遭って奇跡的に生き延びた自分自身の運命とを振り返り、「命」について深く思索を巡らせた作品が、この『城の崎にて』です。
ほんの短い作品の中に、生と死の紙一重の距離感を突き付けられるような凄味を持っていて、名著としてよく挙げられるのも納得。
お勧め作品の中でも、とりわけ読んでいただきたい逸品です。
『転生』
「或る所に気の利かない細君を持った一人の夫があった・・・」
夫婦はお互い愛し合っていたのですが、夫は妻が浅はかで、配慮の足りない人間であることだけが気に食わず、そのことで度々文句を言い続けていました。それでも仲の良かった二人は、生まれ変わったらオシドリになって、次の生も夫婦でいようと約束をします。
さて、まずは夫が先にこの世を去り、次に妻も亡くなって、次の転生を選ぶ段になりました。妻は夫との約束通り、同じ動物に生まれ変わろうと思ったのですが・・・。
途中で「展開が読めた」と、読み飛ばさないでくださいね。最後の段落にもきっとニヤリとさせられますので。お伽噺とも、志賀家の夫婦関係を描いた私小説とも取れる、軽妙な物語です。
後期の短編より ―『自転車』―
戦後を迎え、次第に寡作になっていった志賀直哉。
起伏のある物語というよりは、しみじみとした回想や、身辺で起きた出来事を取り上げた随筆風の作品が多くなっています。
『自転車』
69歳になった作者が自身の学習院中等科時代、50年以上過去を振り返って、自転車に夢中になった頃のことを思い返したエッセイ風の作品です。
往年からやっぱり精神的に潔癖症なところがあった直哉少年の人柄が窺える思い出話ですが、それよりも、「十円あれば一人一か月の生活費に困らなかった」時代に90円の自転車をポンと買ってもらえたというお坊ちゃんぶりに驚いてしまうかも。
明治半ば、まだアメリカやイギリスからの舶来品でしかなかった当時の自転車事情について、ちょっとしたトリビアも仕入れられます。
中編小説 ―『和解』―
我孫子で所帯を持った順吉は、東京の実家とは行き来があるものの、父との確執を抱えたままお互い向き合えずにいました。燻り続ける感情を内に抱いたまま、長女の死や次女の誕生、祖母の不調など、家族と共に過ごす日々は過ぎて行き、やがて、父子の間にようやく雪解けが訪れます。
主人公の名前こそ順吉と変えられていますが、中身は紛れもなく作家自身の物語でしょう。
子供の死と誕生を目前にした緊迫や、父との不仲がもたらす居心地の悪さ、和解後の清々しさなどが過剰に感傷的になることもなく、克明な状況描写によって鮮やかに描かれています。
作者あとがきによると、この『和解』以前に発表され、父に抱いた不信感が膨らむ様を綴った『大津順吉』と、『和解』後に創作され、父と子の不仲を弟の視点から眺めた様子を描いた『ある男、その姉の死』は、同じ材料をそれぞれ別の切り口から見た「一つ木から生えた三つの枝」だということ。
いずれも刊行年が古く、作品自体をなかなか手に取りづらい状況ではありますが、運良くこれらの兄弟作を見かけることがあればぜひ挑戦してみて下さいね。
長編小説 ―『暗夜行路』―
主人公、時任謙作は幼い頃、他に兄弟のある中で一人だけ祖父の家に引き取られて育ちました。成人して作家としての職を得ましたが、祖父の妾であった栄子に家事の面倒を見てもらいながら、友人らと芸妓遊びにふけるような気ままに日々を過ごしています。
そんな生活からの脱却を目指して尾道で一人暮らしを始めますが、思う通りの生活が送れずに鬱々とした日々。そんな中でお栄に求婚を試みた謙作は、自分が母と祖父の間に出来た不義の子であることを知り、深い懊悩に陥ります。
やがて京都に移り、謙作は直子という女性と結婚しました。安らぎの時も束の間、初めての赤子を亡くし、更には彼が留守の間に直子が従兄と過ちを犯したことが分かるのです。謙作は彼女を許しましたが、自身の奥底に、なお許しきれない心が燻っていることが彼を苦しめ続けます。とうとう謙作は、心の平安が得られるまで鳥取の大山麓に赴き、家族と離れて暮らすことを決意しました。大山の山腹で独り夜明けを迎える謙作。周囲に満ちる大自然の息吹に、彼は心が浄化されてゆくのを確信するのでした。
発表から完結まで16年以上かかったという、志賀直哉唯一の長編。
謙作が大山の山腹で夜明けを迎えるクライマックスは、日本文学史上でも屈指の場面とされています。しかも、その圧倒的な自然描写は、直哉が十数年前に現地を訪れた時の記憶だけに頼って書かれたというのですから驚きですよね。
筆者が人生と仕事の上で求めてきたもの全てを投入し、書き尽くしたというこの作品。謙作と共にじっくり辿る暗夜行路の先には、きっと清々しいカタルシスが待ち受けているはず。できれば、話題の最終章だけチラ見・・・ではなく、腰を据えて最初から読み進めてみて下さいね。
終わりに
志賀直哉のおすすめ作品、いかがだったでしょうか。
「小説の神様」と呼ばれるだけあって、短編一つ取っても確かな読後感の得られる作品が揃っています。
ぜひ、手に取ってみて下さいね。