スメタナやドヴォルザークだけじゃない!モラヴィア地方の民族音楽を探求したヤナーチェク
現在のチェコ、モラヴィア地方に生まれたレオシュ・ヤナーチェクは、モラヴィアの首都を中心に活躍した作曲家です。スメタナやドヴォルザークといった作曲家で知られているチェコですが、レオシュ・ヤナーチェクはスメタナやドヴォルザークなど西部の音楽とは異なるモラビアの民族音楽を果敢に盛り込んだ作曲家でした。
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もう一人のチェコ出身の作曲家
現在のチェコ、モラヴィア地方に生まれたレオシュ・ヤナーチェクは、モラヴィアの首都を中心に活躍した作曲家です。スメタナやドヴォルザークといった作曲家で知られているチェコですが、レオシュ・ヤナーチェクはスメタナやドヴォルザークなど西部の音楽とは異なるモラビアの民族音楽を果敢に盛り込んだ作曲家でした。
汎スラヴ主義の思想への憧れ
ヤナーチェクは、1854年にモラヴィア北部の農村に生まれました。モラヴィアの首都ブルノでアウグスティノ会修道院付属学校に入学し、少年聖歌隊員となりますが、その後、王立師範学校の教員養成科に入学し、卒業ともに地理と歴史の教員資格を取得します。さらに音楽の専門的な教育を受けたいと願ったヤナーチェクは、王立師範学校長のすすめでプラハに滞在し、オルガン学校に学びます。
そのプラハ滞在中にヤナーチェクは「全スラブ民族の理想の源泉」としてのロシアに親近感を持つようになります。
1918年に完成した交響的狂詩曲「タラス・ブーリバ」は、そうしたヤナーチェクの汎スラヴへの憧れを示す作品になっています。
モラヴィア民謡との出会い
その後ヤナーチェクはライプツィヒやウィーンでも音楽を学びますが、1880年にふたたびブルノへもどり、そこで民俗学者のフランティシェク・バルトシュと知り合います。このバルトシュと共同で民俗舞踊の収集分析を行ったことがきっかけで、ヤナーチェクはモラヴィア地方の民謡に強い関心を抱くに至りました。
その時代に作曲された「ラシュスコ舞曲」は、ヤナーチェクの民俗音楽の影響がうかがわせる最初の作品とされています。
モラヴィア方言による初のオペラ
さらに19世紀末になると、ヤナーチェクは「発話旋律」という技法を用い、言葉の自然な抑揚を表現して曲を構成することに成功します。オペラ「イェヌーファ」は、ガブリエラ・プライソヴァーの戯曲「彼女の養女」の翻案を基にした戯曲で、舞台はモラヴィアの農村でした。モラヴィア方言で書かれている点は重要で、そのためヤナーチェクが独自の語法を確立した作品としても知られます。
教会スラヴ語のミサ曲
ヤナーチェクの晩年の傑作には、「グラゴル・ミサ」があります。教会スラヴ語の典礼文にヤナーチェクが曲付けした作品で、独唱者と合唱、管弦楽のための作品です。ただしヤナーチェクにとって宗教的な意図は希薄で、あくまでもスラブ民族の顕彰が目論まれた特殊な作品でした。数多いヤナーチェクの合唱曲の中で最もすぐれた作品として位置づけられ、現在でも演奏回数の多い曲です。
東洋を思わせる作曲家
スメタナやドヴォルザークがボヘミア(西部)の都会的で西ヨーロッパを思わせる音楽を確立したとすれば、ヤナーチェクは、スラヴ系特有の東洋のような色彩を残す農村の音楽といえます。その音楽は、自由な旋律によって構成される短調中心の音楽でした。しかしヤナーチェクは、スラヴ人のためのチェコ音楽を目ざし、それを世界的水準の音楽へと昇華させました。民族音楽が盛んに参照された時代、ヤナーチェクは、音楽の源流探求の深さとひろさを示す重要な作曲家だったといえるでしょう。
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この記事のライター
藝術文化系のコラム、論評の執筆を多くこなしてきました。VOKKAではインテリアなど、アートに関わる記事を中心に執筆しています。