ロシア文学の有名作家おすすめ10選
どの国よりも小説に「高尚さ」が求められたロシアの文学作品。
「長くて読みにくい」「難しい」と思われがちなロシア文学ですが、手にとってみるときっとハマってしまう作品が多いはず。名作、大作ひしめく作品群の中から初心者でも気負わず読めるよう、できるだけ「長くない」・「重くない」・「難しくない」作品をご紹介します。
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ロシア文学はじめの一歩
「ロシアの小説はどうして長い?」‐「冬、引き篭もる時間も長いから」
そんな小話が囁かれるほど、ロシア文学には「重い」、「長い」のイメージが付きまといます。
西欧諸国に遅れること約1世紀、啓蒙思想に始まる近代的な精神活動が国内へ流入した19世紀以降も、ロシアでは言論の自由が制限され続けました。そこで、哲学、宗教、政治といったあらゆる思想信条の啓発ツールとして用いられたのが小説です。ロシア文学の「重さ」、文学が背負った使命感の「重さ」でもあるのでしょう。
けれども、全てのロシア文学が、覚悟無しには読み進められないような重厚さをもっているわけではありません。パラパラと手に取って気軽に楽しめる名作もたくさん存在します。
ここでは、そんな「読みやすさ」も重視して、ロシア文学の名作たちを紹介していきたいと思います。
アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)
国民詩人 プーシキン
プーシキンはモスクワの地主貴族の家系に生まれました。幼年期に彼を育てた乳母は、ロシアの民話や民謡に詳しく、幼いプーシキンにも多くの民間伝承を聞かせたそうで、その環境が彼のその後に大きな影響を与えたと考えられています。貴族子弟のための学校であるリツェイ(学習院)在学時、朗読した自作の詩を当時の詩壇の大御所に認められるなど、早くからその才能はお墨付きで、卒業後も外務院官吏の傍ら詩作に耽る生活でしたが、次第にその作品は政治的な自由を謳うなどの急進性を帯びて行きます。とうとう皇帝の不興を買って南ロシアへ追放処分を受けたのが21歳の時、流刑は6年後に解かれましたが、それからも秘密警察に監視を続けられる生活を余儀なくされることになります。
しかし、このような窮屈な生活でも彼の創作意欲は衰えず、代表作である韻文小説『オネーギン』、幻想小説『スペードの女王』、歴史小説『大尉の娘』など、多くのジャンルで傑作を生み出しました。
彼は妻に言い寄る近衛士官ダンテスとの決闘により、37歳で命を落としましたが、背後にはプーシキンを快く思わなかった貴族階級一派の陰謀があったと言われており、詩人レールモントフは、追悼詩『詩人の死』の中で、プーシキンへの哀悼と、陰謀に加担した貴族たちの糾弾を行ったということです。
プーシキンの功績は、自身の作品の中に、積極的に口語を取り入れ、文章としての近代ロシア語の基礎を確立したことでしょう。「ロシア最初の国民詩人」とも讃えられています。
『オネーギン』
青年貴族オネーギンは、ペテルブルグでの遊蕩生活に退屈し、片田舎の領地へ隠棲します。
ふさぎの虫に取り付かれ、社交を嫌い、何事をも冷めた目で見る彼に、近隣の領主一族の娘で、純朴な少女のタチヤーナは想いを寄せ、手紙でその思慕を告白しますが、彼の反応は冷淡なものでした。
やがて、オネーギンはつまらない決闘で友人を殺害し、流浪の旅に出ましたが、数年後、舞い戻ったペテルブルグで、いまや公爵夫人として社交界に君臨するタチヤーナと再会します。たちまち彼の中にタチヤーナへの恋心が芽生えますが、今度は彼女にそれを拒絶されるばかりか、その浅はかな未練を諭されるのでした。
あらすじ紹介など意味を持たぬほどに本作で存在感があるのが、作者であるプーシキンの「介入」です。語り手として物語を進行するはずの彼は、ちょくちょく本筋の進行を妨げて、人物たちの心理を分析し、生活習慣に言及し、感想を述べ、さらに、社会の習俗を皮肉り、果ては自身の境遇を嘆いて見せたりと大活躍。その本筋と関係のない挿入話が一つ一つ興味深く掘り下げられているのが、「ロシア人の生活百科」とも評される所以なのでしょうか。まるで「雑談だらけの楽しい講義」。
原作は韻文で書かれていますが、岩波文庫の池田健太郎版は散文調に訳されており、文体としてとっつきやすいかと思います。
ニコライ・ゴーゴリ(1809年-1852年)
最期まで、ブラックユーモア
ゴーゴリは、ウクライナで小地主の家に生まれました。文壇界で一旗揚げようと、19歳で首都ペテルブルグに出ますが、デビュー作の反応は惨憺たるもの。失意のうちに下級官吏や教職等に就きながら、細々と文筆活動を続けていました。
やがて、故郷ウクライナに伝わる伝承を題材に取り入れた物語集『ジカニカ近郊夜話』が人気を博し、雪辱を晴らしたのが22歳の時。以降、彼はウクライナものの続編や、ペテルブルクものと呼ばれる、首都に暮らす人々を主人公とした作品群、プーシキンの勧めで書いた戯曲『検察官』などを次々に発表し、着実に評価を積み重ねて行きます。
しかし、農奴制への批判を込めて発表した『死せる魂』第一部の発表後から、より良い作品を書くためには、自身がより良い人間にならなければならない、との葛藤を抱き始め、やがて狂信的な妄想に取りつかれるようになっていきました。『死せる魂』第二部は、そのような信仰上の発作から、彼自身の手で二度までも完成原稿が火にくべられてしまい、未完の作品となっています。
『死せる魂』の原稿が2度目に灰になってまもなく、ゴーゴリは断食による衰弱により、43歳でこの世を去りました。治療と称して熱湯と冷水を交互に浴び、鼻には瀉血のために夥しいヒルが群がる、凄惨な最期だったようです。
彼の作品は風刺とユーモア…それもブラックユーモアに溢れており、時にグロテスクな幻想を交えながら猥雑な世間に暮らす「小さな人間」たちの姿をいかにも「小さく」描くことが得意でした。文豪トルストイが、「われわれは皆ゴーゴリの『外套』の中から生まれてきたのだ!」、と語ったと言われるほどに、後のロシア文学界にも大きな影響を与えた人物です。
外套・鼻
首都ペテルブルグに住む人々を題材にした、いわゆる「ペテルブルグもの」の短編、二作品です。
八等官吏、コワリョフ少佐は、自分の「鼻」が、ある日突然無くなっているのに気付きました。慌てて行方を追うと、なんと「彼」は、礼服を身に着け、馬車から降りて目の前を横切っていくではありませんか!奇抜で衝撃的な展開に終始する『鼻』。そして、とある下級官吏の身に降りかかる理不尽な災難と、その顛末が描かれる『外套』。
筋立てだけても十分に異常事態。けれども、真に異常なのは、こんな出来事がさも事もなさげに語られてしまうこの世界自体なのでは?
ブラックユーモア溢れる、シュールな物語です。
イワン・ツルゲーネフ(1818-1883)
日本の文学史によく出る
ツルゲーネフは中部ロシアに生まれました。実家は大地主でしたが、彼自身は早くから農奴制に疑問を抱いていたといいます。ベルリンへ留学後、一時は内務省に努めましたが、29歳のときに雑誌に発表された短編(後に執筆した続編群と合わせ、『猟人日記』として出版)で評価を得てから、作家としての経歴が始まります。作品に込められた農奴制への批判が原因で、一時期は逮捕、蟄居処分を受けたこともありましたが、創作意欲は衰えず、短編から長編まで多くの作品を世に送りました。世代間の思想的な相克を描いた代表作、『父と子』のように、社会問題を主題とした作品も多いですが、自身の体験をもとにした『初恋』のような私小説も発表しています。
また、彼の作品は二葉亭四迷の邦訳で早くから日本にも紹介されており、特に「あひびき」、「めぐりあい」などは、明治期の日本の文壇にも多大な影響を与えました。
『初恋』
「私」ことヴォロージャは、16歳の時、別荘の隣に引っ越してきた零落貴族の娘、ジナイーダと出会い、淡い恋心を抱きます。5歳年上のジナイーダは、いつも彼女の「崇拝者」達に囲まれて、他愛のないゲームに興じたり、気まぐれに相手を弄んだりして楽しむような女性でした。恋心を見透かされた「私」は、彼女に苛められたり、からかわれたり、時には甘やかされたり…。「私」はただ、ますます募る恋心に翻弄されるばかり。
けれど、ある時からジナイーダの様子がおかしくなりました。彼女もまた、誰かに恋をしたのです。一体誰に?「私」の懊悩はさらに増していくのでした。
この作品に関して、ツルゲーネフは「作り話ではなく、身をもって体験した話」と語っています。彼の父は色男で、財産目当てに年上の女性(=ツルゲーネフの母)と結婚したものの情事が絶えなかったようです。そして、ツルゲーネフ自身はその父の恋人に恋心を抱いた経験があった、というのです。そんなツルゲーネフの私小説として味わう読み方ももちろんありますが、ただ純粋に、初恋を自覚した少年の、揺れ動く気持ちの昂揚や不安が克明に描かれた、甘酸っぱい物語として楽しむこともできるでしょう。
フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)
言わずと知れた、ロシアの文豪
ロシアだけでなく、世界的にも知名度を誇る文豪ドストエフスキーは、モスクワ生まれです。23歳で執筆した『貧しき人々』で評論家のベリンスキーに才を見出され、作家としてデビューを果たしますが、その後、社会主義の結社に加入したために逮捕され、28歳より10年間、シベリア流刑を経験しました。後年、この時の体験を基に、『死の家の記録』を著しています。
二度の結婚、浮気、賭博狂いが原因の借金と、私生活はお世辞にも模範的と呼べるものではありませんでしたが、重厚なその作品は、当時の帝政ロシアの社会制度に疑義を提示しながらも、暴力的な革命運動ではなく、キリスト教的信仰心による精神的な救済の道を模索していた、と解釈されることが多いです。
代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』などで、その膨大な著作量をこなすため、彼の後期の作品には、自身が話した言葉を速記者(後に二番目の妻になりましたが)に記させる「口述筆記」、という手段が採用されたそうです。
『罪と罰』と、その背景
読んだことはなくてもタイトルなら知っている、という方もきっと多いでしょう。独善的な正義観から高利貸の老女を殺害した青年ラスコーリニコフが、信心深くありながら、家計を支えるため娼婦として働く知人の娘、ソーニャと出会い改悛の末に罪を自白、法に従い罰を受けるまでの大長編。
人が人を殺すこと、人が人を裁くことの正当性はどこにあるのか、重いテーマに挑んだ思想小説でありながら、見方によってはラスコーリニコフと、それを追い詰める判事ポルフィーリィの犯罪サスペンス、またラスコーリニコフとソーニャとの恋愛小説ととらえることも可能です。
ところで、この作品が執筆された前年、ドストエフスキーは、最初の妻アンナを闘病の末に、続いて最大の支援者であった兄ミハイルも急病で失うという不幸に見舞われていました。失意の只中で、兄が主宰していた雑誌「世紀」の発行を引き継いだドストエフスキーでしたが、資金繰りに行き詰まり、雑誌は間もなく廃刊。借金取りから逃れてドイツへ渡航するも、滞在先でルーレット賭博にはまり、さらなる借金地獄へ。
こうして、彼は滞在先のホテルから蝋燭を貸すことさえ拒否されるほどの窮地に陥っていったのです。
膨らんだ借金を返済するため、ドストエフスキーは出版社から次の作品の原稿料を前借りしました。以降発表する作品の著作権を出版社に譲渡する、という条件まで呑んで。
ただ読むだけでも壮大なスケールに圧倒される『罪と罰』ですが、制作当時の作者の窮状を重ねて読むと、一層、ドストエフスキーの作家としての凄まじい力量に驚嘆させられるように思います。
『白夜/おかしな人間の夢』
「白夜」はドストエフスキー27歳、ごく初期の短編です。夢想家の青年が、白夜の夜に経験した失恋物語。
「おかしな人間の夢」は、最後の大作『カラマーゾフの兄弟』執筆直前に発表された短編です。
虚無に憑かれ、自殺まで考えた男が「おかしな夢」を見ました。それは、自分が死んで、他の惑星に連れていかれ、「楽園」に暮らす人々が、堕落して、自ら「幸福」から遠ざかっていく様を目の当たりにする夢。夢から覚めた男は一つの真理にたどり着き、自殺の代わりにある決意を心中に抱きます。
前者はその後、壮絶な人生を歩む作家が、まだシベリア流刑を経験する前に書き上げた読み口の軽い作品。
後者は、多くの人生経験を積んだ作者が、自身が作品を通して追求しているテーマが何であるかをぎゅっと凝縮した、密度の濃い作品。
長編の多いドストエフスキー作品群に挑む前の肩慣らしとして、また、一作家の人生の前期後期を比較する作品としても面白いです。
レフ・トルストイ(1828-1910)
偉大なる小説家、そして思想家
ドストエフスキーと双璧を為す、ロシアの誇る大文豪。
富裕層の四男として生まれた彼は、カザン大学を中退後、従軍経験を経て文人として活躍を始めました。二十代後半で訪問した先進国フランスにてギロチンの公開処刑を目撃した衝撃から、文明国家の体制に疑問を抱くようになります。
帰国後は16歳年下のソフィアと結婚し、30~40代にかけて、代表作である『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』を書き上げました。
執筆活動に励む傍ら、トルストイが注力していたのは、子供や農民の教育活動や、慈善活動で、特に彼の後半の作品にはその傾向が顕著に表れ、宗教性、道徳性が高いものが多くなっていきます。
非暴力を中心とした彼の教えはトルストイ主義と呼ばれ、多くの信奉者たちを獲得しました。中にはその著作を読むだけでは飽き足らず、風貌まで真似するほどの熱烈なファンさえ現れたほどでした(もっとも、トルストイ自身はそのような熱狂的な信者の存在に困惑していたようですが)。
一方、その思想の中に政治体制や形骸化した教会組織への批判が含まれていたことから、当局やギリシャ正教会からは好ましく思われておらず、作品が発禁処分になったことも何度もありました。さらに、70歳を過ぎてから発表した最後の長編『復活』に至っては、その内容が教義を侵し、聖書を冒涜しているとして、教会から破門宣告を突きつけられます。当時の教会からの「破門」は、日本でいえば「村八分」に相当するような過酷な処分でした。しかし、そのような処遇に遭っても、トルストイを支持する大衆の声はなお止むことはありませんでした。
その後も「生き方」を真摯に追求し続けたトルストイは、ついには「所有の罪」から解放されるため、全財産の放棄に思い至りました。しかし、これは前々から険悪だった妻ソフィアとの間に決定的な不和を呼び起こすことになり、思い余ったのか、トルストイは82歳で家出を決行します。しかし、これが老体に堪えたのか、直後に体調を崩した彼は肺炎を患い、そのまま小さな鉄道停車駅の宿舎で82歳の生涯を終えました。
『戦争と平和』
パリ帰りの青年ピエール、真面目な貴族将校アンドレイ、モスクワの中流貴族ロストフ家の兄妹ニコライ、ナターシャなど、複数の主役級人物たちの半生を重層的に紡ぎ上げた大河小説です。
タイトルにある「戦争」とは、1805年のナポレオン軍によるロシア侵攻です。このとき、ナポレオンは60万の軍勢を率いて一時期はモスクワを占領し、殺戮と略奪の限りを尽くしました。対するロシアのクトゥーゾフ将軍は、モスクワを捨てて時を待ち、ロシアの冬に疲弊しきったフランス軍を徹底的に追い詰め、最終的に戦争はロシアの勝利で終わっています。作品内には直接の戦線描写は少ないですが、各々の人生が、戦争を境に大きく狂わされていく中に、戦争という行為の狂気、非人道性が強く訴えられています。
『イワンのばか』(トルストイ民話集)
「真の芸術は、ただ美しく、享楽的であるものではなく、人生に何らかの寄与を与えるべきもの」であり、「誰もが理解できる、普遍的なものであるべき」である。後年のトルストイの芸術観をそのまま体現したのが、この彼の再話による民話集で、どの話も素朴で平易な語り口によって、トルストイが理想とした、つつましく、敬虔な生き方への礼賛が綴られています。
タイトルが目を惹く表題作の「イワンのばか」は、軍人の長兄、商人の次兄を誘惑して破滅に陥れた悪魔が、無欲で勤勉な三男のイワンによって退けられる物語。おそらく最も物語としての完成度が高い作品かと思われます。
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860-1904)
ロシア随一の劇作家
チェーホフは、ロシアの南方、アゾフ海沿岸の港町に生まれました。モスクワに出て医学部に在籍する傍ら、副業で雑誌への寄稿を行っていましたが、しだいにそれが本業となって行きます。彼がデビューしたのは19世紀末、ドストエフスキーやトルストイの二大文豪が世間から退き、19世紀初頭から一挙に開花したロシアの近代文学が、ちょうど「空白の時代」を迎えた頃でした。ユーモアあふれる作風でたちまち人気作家となった彼は、文壇界のトップとして注目を浴びます。30歳の時、突然、シベリアを横断し、当時流刑地であったサハリンへの冒険を単身で試みてからは作風が変わり、中でも心血を注いだ戯曲の分野では、淡々とした会話劇を中心に物語を進めながら、人物たちの内面描写に主眼を置いた「静劇」のスタイルで、次々とを発表しました。『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』。これらは、四大戯曲と呼ばれ、今でも世界各国の劇場で上映されています。
『桜の園』
農奴解放令後のロシア。5年ぶりに娘と共にパリから領地へと帰ってきたラネーフスカヤ夫人。生まれ故郷でもあるこの場所は美しい「桜の園」が自慢で、夫人は兄や娘、使用人たちと、昔の思い出を語り、幸せだった時代の思い出に浸ります。しかし、今や一家は財政難の瀬戸際で、「桜の園」も生まれ育った我が家も、近々競売にかけられることになっていたのです。
けれども、貴族の家に生まれ、裕福な暮らしをあたりまえに享受してきたラネーフスカヤ夫人は、相変わらずレストランで豪華な食事を注文したり、物乞いに気前よく恵んでやったり、自身が置かれている状況を現実として受け止め切れていない様子。成り上がり商人のロパーヒンは、かつての主家の窮状に、領地の桜を伐採し、都会の別荘族に貸し出すことを進言しますが、まともにとりあってもらえません。
やがて運命の日が訪れます。競売にかけられた「桜の園」とお屋敷、そしてその一族の運命はどうなってしまうのでしょうか。
「劇」でありながら「劇的」<ドラマティック>な展開が殆ど訪れないチェーホフの戯曲は「静劇」とも形容されます。この作品でも、英雄でも悪党でもなく、ただ凡庸な…どちらかといえば消極的な人物たちが舞台に入れ代わり立ち代わりに会話を積み重ね、とある没落貴族の人生の人生の一コマが淡々と紡がれていきます。その中に、時代に乗り遅れた旧世代の悲哀を読み取るか、苦境から新たな一歩を踏み出す希望を見出すか、読み手に大きく解釈の余地が与えられた物語、と言えるでしょう。
マクシム・ゴーリキー(1868-1936)
ソビエト政権下の代表作家
本名はアレクセイ・マクシモヴィチ・ペシコフで、筆名の「ゴーリキー」は、「苦い、苦しい、辛い」、と言った意味だそうです。
ニジニ・ノヴゴロドで家具職人の子として生まれましたが、幼少期に両親の死と、養育者である祖父の破産を経て早くから自活の必要に迫られ、11歳より21歳頃まで、使用人や工房助手などの仕事を転々としました。一方で、商人階層だった祖父に読み書きを仕込まれた彼は仕事の合間に読書に耽っており、このことが、彼が作家として歩むことを可能にしたと思われます。
24歳で初めて「ゴーリキー」の筆名を用い、紙面上で短編を続々に発表、やがて、活躍の場を地方紙から大衆雑誌へと移しましたが、彼が作品の中で扱った、社会の最底辺での実体験や、そこに生きる人々の在り様といったテーマが斬新で、ゴーリキーの名はあっという間に一斉を風靡していきました。
30代後半でレーニンと親交を結び、ロシア革命という歴史のうねりに立ち会った彼は、共産主義への共感を見せ、一時期ボリシェヴィキ政権との対立によりイタリアへ出国しましたが、最終的には擁護派としてスターリン政権下のソ連で文化政策を体現することになりました。
二十六人の男と一人の女
1861年、皇帝アレクサンドル2世が発した農奴解放令により、農奴と呼ばれる領主とその土地に隷属する領民に人格権や職業選択、移動の自由が与えられました。けれども、実際に土地を所有するためには、高額な買戻し金を支払わねばならず、また、農村部の自給自足の生活が市場経済の仕組みに晒されるようになったことから、出稼ぎ者として都市部へ流入したり、職を求めて各地を転々と流浪する農民も多く現れるようになりました。
この作品集には、ゴーリキー自身の体験や見聞に基づくと言われる短編が、4つ収められています。主人公は半地下の部屋で一日中パン作りに従事する26人の男たち、地方議員から落ちぶれ、街の権力者の風呂小屋に寝起きする男、港湾の街の泥棒、南方の山岳地帯に職を求める流浪の民たち…。
その経歴から、ソヴィエト政権の興亡に伴って評価の浮沈したゴーリキーですが、彼の前半期に書かれたこの短編集は、思想云々を抜きにして、農村を捨てて都市部の底辺にたむろする人々の悲哀や矜持を描き出したルポルタージュとして、興味深く読めるのではないかと思います。
アンナ・スタロビネツ(1978~)
現役のホラー・SF作家
アンナ・スタロビネツはモスクワ生まれです。モスクワ大学文学部を卒業後、「ニュースの時代」紙の記者になり、2005年、26歳の時に短編集『むずかしい年ごろ』で作家デビューを果たし、ロシアでは稀有なホラー作家として一躍注目を浴びました。その後もジャーナリスト、文芸評論家として現役で活動する一方で、怪奇・幻想小説のジャンルでロシア国内の文学賞を受賞したり、児童向けの作品も手掛けるなど、幅広いジャンルで活躍しています。現時点で日本語訳されているのは『むずかしい年ごろ』の1作品のみ。今後の邦訳に期待です。
『むずかしい年ごろ』
離婚して、モスクワ郊外のアパートへ引っ越してきたマリーナと、二人の子供たち。最初の異変は双子の兄妹の8歳の誕生日目前、兄のマクシムが高熱で寝込んだことから始まりました。以来、マクシムは悪臭を放つ部屋に籠り、自身を「女王」と名乗るなど、次第に異常な行動をエスカレートさせて行き、数年後に、妹のヴィーカと共に忽然と失踪します。二人の行方を追ううちに、マリーナはマクシムの日記を目にすることになりました。そこに記されていたのは、体内に寄生された「蟻」の群れによって、自我を蝕まれ、おぞましい存在へと変貌を遂げて行く息子の姿。そして・・・。
表題作の『むずかしい年ごろ』の他、「革命」と呼ばれる果てしない殺戮を経て、少数の人間と人造人間のみが存在する世紀末的な世界を舞台にした『生者たち』、あるときふと心臓が停まり、死者として扱われながらその後も生き続けた男の話、『ヤーシャの永遠』など、日常がじわじわと異常に侵蝕され、脅かされるようなホラー、SFテイストの作品を8つ収めた短編集です。
寝台列車で結ばれる都市と都市との途方もない距離感や、妙に生々しい革命の描写など、「ロシアらしさ」を所々に垣間見せる一方で、IKEAの家具のあるアパートに住み、地下鉄で通勤し、会社でwordを立ち上げる、そんな作中人物たちの生活環境が否が応でも物語を身近に引き寄せます。もし舞台が新宿だったら?横浜だったら・・・?「ロシア文学」としてではなく、むしろ「同時代の文学」として楽める作品です。
【番外1】ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)
「ロリコン」生みの親
少女性愛嗜好を指す「ロリータ・コンプレックス」の語源となった小説、『ロリータ』の作者です。
ロシアの生まれですが、後にアメリカへ帰化していますので、番外として扱いました。
帝政ロシアの貴族の家に生まれた彼ですが、ロシア革命後、20歳でヨーロッパへ亡命。政治家であった父は、後に暗殺されています。ベルリン、パリでの生活を経て、41歳で渡米、アメリカに帰化しました。ヨーロッパ滞在時から教職の傍らロシア語、英語での創作を行っていましたが、渡米後の1955年に英語で発表された『ロリータ』で国際的な知名度を得ます。その後スイスのモントルーに移住して、終生を創作や翻訳などの文筆活動に捧げました。
また、子供の頃から蝶の採集が趣味で、鱗翅目研究者と言う、学者としての側面も持っていました。
『ロリータ』
中年男性が少女に抱く倒錯した恋を描いた、1955年発表の作品です。
物語はアラフォーの中年男性、ハンバート・ハンバートの獄中手記、と言う形で語られています。
12歳の少女ドロレス・ヘイズ、愛称ロリータへの下心を持って、その母である未亡人シャーロット・ヘイズと結婚したハンバート。シャーロットが不慮の事故で死亡すると、ロリータを騙し、全米を自動車で巡る旅行に連れ出します。当初は、万事順調に見えたかの逃避行でしたが、時と共に成長して行くロリータは、次第に彼に反抗的、挑戦的な姿を募らせ、14歳になったある日、彼の前から忽然と姿を消しました。3年後、ついにその居所を掴んだハンバートは、失踪の真相を知り、そして殺人の罪を犯すことに…。
その衝撃的な内容のため、アメリカ国内の出版社に立て続けに出版を断られた本作は、パリのポルノ小説で有名な出版社の手でようやく発表されました。同年中にイギリスの小説家グリーンがこの作品を絶賛すると、別の書評家がこれを低俗なポルノとして酷評、その論争が話題を呼び、3年後にアメリカでも出版されると、たちまち『風と共に去りぬ』以来のベストセラーになったということです。
古今の文学への深い造詣と、軽妙なレトリックに溢れ、読み解くのに楽しい作品ではありますが、一方で立ち塞がるのが、本作の背骨にもなっている極端に偏った性愛嗜好。直接の表現はないものの、明らかにそれとわかる性愛描写も多いため、苦手な方にはお薦めできません。耐性のある方だけ、どうぞ。
【番外2】サムイル・マルシャーク(1887-1964)
ところで、ロシアの児童文学といえば?
ロシアの代表的な児童文学者として、マルシャークをご紹介します。
貧しい労働者の家庭に生まれた彼は、もともと病弱だったことと、出自が当時のロシアで圧迫を受けていたユダヤ人であったことで、苦労の多い幼年時代を送りました。しかし、同時に早くから文才を表してもおり、その才能に感銘を受けたゴーリキィに、そのころのユダヤ人には居住を許されていなかった温暖なヤルタの保養地に住めるよう計らってもらったといいます。
ロシア革命後の1917年に、国内で最初の子ども劇場である「こどもの町」創設と運営に携わり、専ら児童文学の分野で多くの作品を発表し続けました。
日本では、児童向けの中編『森は生きている』の他、『ねこのいえ』、『小さなお城』などの幼年向けの絵本が翻訳されています。
『森は生きている』
スラブの古い伝承を基に作られた、ロシア版のシンデレラストーリーのような作品です。
継母に不当な扱いを受ける娘が、その勤勉さと優しさゆえに超自然的な存在(ここでは、「十二の月の精」)に助けられ、最後には幸せを掴み取る。
日本にも、世界各地にも類型となるおとぎ話は存在しますね。
継子いじめという悲劇は万国に存在し、それによって虐げられる小さな存在に寄せる素朴な憐れみの感情も、万国共通ということなのでしょうか。
原題を直訳すると「十二月(つき)」ですが、日本では湯浅芳子さんが『森は生きている』として紹介し、現在も定番の児童劇として上演され続けています。
さいごに
番外も含め、10人の作家から12作品をご紹介しましたが、気になるタイトルはありましたでしょうか?
ロシア文学=敷居が高い、などと言わずに、ぜひ一冊でも手に取っていただければと思います。