【トーク力が上がる】三島由紀夫「不道徳教育講座」のキレキレフレーズ
常人には思いつかないような切り口で社会を風刺している「不道徳教育講座」を読んで、トーク力を身につけましょう。
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エッセイや散文も書いていた三島由紀夫
三島由紀夫は数多くの文学作品を世に残しましたが、実はエッセイや散文にも取り組んでいました。その中でも、読書家の間で評価が高いのが、こちらの「不道徳教育講座」(角川文庫 – 1967/11/17 三島 由紀夫 (著))です。
悪口の的になるのは、(悪口屋自身が意識していなくても、)必ず何らかのソゴであります。外見と中身とのソゴ、思想と文体とのソゴ、社会と個我とのソゴ、作品の意図と結果とのソゴであります。そしてソゴというやつは必ず漫画の材料になりうるもので、悪口と笑いには密接な関係があります。もちろんその笑いには、弱い鼠が猫を笑うような笑いもあれば、強い猫が弱い鼠を笑うような笑いもありますが……。
悪口と笑いには密接な関係があるとの指摘です。悪口をとにかく嫌う方も多い昨今ですが、悪口と笑いとの本質が同じものだとすれば、悪口も一律に切り捨てることができないものなのかもしれません。
道徳と名声は相反するものであるとの指摘です。確かに、名声を得た人には、清濁併せ吞むだけの度量のある人間が多いのではないでしょうか。いい人ぶってばかりいては出世できないかもしれません。目指すべきは、「いかがわしい」ビジネスマンなのでしょうか。
いうまでもなく肉体ははかないもので、第一、今の世の中では、体だけでは一文にもならない。金になるのは何らかの形の知能です。おまけに知能のほうは、年をとるにつれて累積されてゆくが、体のほうは、三十代から衰退の一路を辿りはじめる。そうかといって、金にもなるしモチもいい知能だけを後生大事にしている男は、私には何だか卑しくみえる。一回きりの人生なのですから、はかないものをもう少し大事にして、磨きたてたっていいではないか。筋肉はよく目に見え、その隆々たる形はいかにも力強いが、それが人間の存在の中で一等はかないものを象徴しているというところに、私は人間の美しさを見ます。肉体に比べると、人間の精神的産物や事業や技術は、はるかに長保ちがする。しかし短い一生を、長保ちのするものだけに使う、というのは何だか卑しい感じがする。肉体を軽蔑することは、現世を軽蔑することである。
有用なものを大事にするのは卑しく、もっとはかないものを大事にしてはどうかという指摘です。現代人は、「意味があるか無いか」という合理的な判断こそが「かっこいい」と考えがちですが、三島由紀夫はそのような考え方に一石を投じています。卑しい人間になりたくなければ、はかないものに手間ひまをかけてみましょう。
全く自力でたったと思ったことでも、自らそれと知らずに誰かを利用して成功したのであり、誰にも身を売らないつもりでも、それと知らずに身を売っているのが、現代社会というものです。……自分一人聖人みたいな顔をしているのは、コッケイをとおりすぎてキザである。
現代社会は複雑に入り組んでおり、自分の活動やそれによって得られた成果も、社会のシステムの中で生み出されたものなのでしょう。ノーベル賞や特許の帰属の問題で、「誰の成果なのか」が取り沙汰されることがありますが、こういった成果も、その基礎は社会のシステムの中で長い年月をかけて醸成されてきたもので、たまたま「発明者」がいいタイミングで成果の萌芽の瞬間に出くわしただけなのかもしれませんね。
一般的に浅薄さはすぐすたれ、軽佻浮薄はすぐ凋む。流行というものは、うすっぺらだからこそ普及し、うすっぺらだからこそすぐ消えてしまう。それはたしかにそうだ。しかし一度すたれてしまったのちに、思い出の中に美しく残るのは、むしろ浅薄な事物であります。……浅薄な流行は、一度すばやく死んだのちに、今度は別の姿でよみがえる。軽佻浮薄というものには、何かふしぎな、猫のような生命力があるのです。流行の生命力の秘密は、まさにここにひそむともいえましょう。
「思い出の中に美しく残るのは、むしろ浅薄な事物であります」というフレーズがとても日本人的で印象的です。流行にはサイクルがあると言われていますが、当時からもそのような認識が一般的だったのでしょうか。
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