【連載小説】死の灰被り姫 第1話
森に迷い込んだ一匹の牛は、川の女神に出会い、下僕にされる。壮絶なメルヒェンが今、始まる……!
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牛は来る場所を完全に間違えていた。月が鈍く光っていた。川の流れは冷たく、空気を否応無しに冷やしていた。森は暗い。あるのは僅かなせせらぎの音と、月明かりをはじく川面のみだった。牛は状況を飲み込むにつれ、真っ青になった。それは夜の闇に溶けるかのごとくだった。青々とした牛は、なぜこんな事になったのか、聞いてほしかった。この土壇場のせっぱつまった、どうしていいかわからない状況で、耳を傾けてくれる人が必要だと彼女は思ったのだった。牛は女の子だった。牛はただ、鈍く光る月を呆然と見上げるだけだった。そして、聞いてほしいと思った、どうしてこんな事になったのか。だが、牛は孤独だった。そこは鬱蒼と茂る森の真ん中で、ただ川が流れているだけで、しかも月も明りは鈍いのだ。だから牛はすごく孤独だったし、女の子だから、さみしいし怖いな、って思った。こんなことになったのも、そもそも話をちゃんと聞いておかないからだ、と牛は自分を責めた。うっかりして話を聞き流していたのだ。うっかりやさんな女の子だ。そして、寂しさを紛らわせるためにてへっ、と笑ったが、虚しいばかりであった。空気が冷えているので寒々しく、どこまでも虚しい闇が広がっていた。ああ、あのにぶたらしい月はまるで私みたいだな、と牛は思った。話さえ聞いていれば……そう、午後五時五十分までには牧場に帰るって、たしかそう言ってた気がする。そうだ、たしか午後五時五十分が今日の門限なんだ。なぜかいつもより、少し早かったんだ。なぜかという理由も話してた気がするけど、全然聞いてなかった。私、話を聞いてなかったんだ。それなのに、自分の話を聞いてほしいなんて、都合がいいよね。ずるい女だよね。そして、てへっ、と笑うが、どこまでも寒々しかった。だいたい、なぜこんな事になったかというと、話を聞いてくれる? 牛は自分で道を憶えて歩いたことはなかったのだった。いつも、仲間の牛の後を歩いて、のんびりお散歩をしていたのだった。だから仲間に道は頼りっきりだったのだ。そして今日は、門限がいつもより早い午後五時五十分であると知らずにうっかり呆然としてたら、いつのまにか周りの牛たちはいなくなってた。もうみんな帰り始めてしまっていたのだった。しまった、うっかりしていた、怖さと寒々としたものを感じたが、すでに孤独だった。そして女の子になってた。闇雲に走っているうちに空気は冷えてきて、目の前には川が横切り、そして鈍く光る月が昇っていた。ああ、午後五時五十分だとはっきり意識していれば……ゴゴゴゴジゴ十分だって! てへっ。ああ、私の孤独と寒々とした心を聞いてほしい!
川は月の光を浴びて、ちらちらと輝いている。牛は祈った。どうか、この私の話を聞いてほしい……。するとそのときだった、その心に応えるかのように、川の水は波立ち、荒れ、そり上がり、中から一人の女が姿を現した。
「あなたが落としたのは、この『帰るべき場所』ですか? それともこちらの『仲間たちの暖かみ』ですか?」その女は言った。「ちなみに、私は川の女神です」
牛は、川の中で立ち泳ぎしながら、両手にもやもやしたよく分からない発光体を持ち抱えているその川の女神とやらを見て、ちょっと憮然とした息を吐いた。なんなんだ、こいつ。私の状況も聞かないで、自分の話を始めやがって。しかも聞いてもいないことまでいちいちしゃべっちゃってさ。うざいな。女の嫌なところを凝縮したような奴だ。私は、話を聞いてほしいんだよ。おまえなんて、しらないんだ。去ね、ぼけが。
「どっちもいらん」牛は言った。
「では、何をおとしたのですか?」
牛のいらいらは最高潮に達した。「もおおおおおおお!」牛はいなないた。「なにもほしくない! あんたなんかに恵んでもらうほど落ちぶれちゃいないんだよ、ダボが!」
それを聞いて青筋を走らせたのは女神の方である。「肉の部位の塊風情が、この女神様に向かって……!」彼女は筋引き包丁を抜くと、牛に躍りかかった。
「死ねや!」
「うわー! 屠殺される!」牛はしゃにむになって森を走って逃げた、が、女神は全力で追いながら筋引きを振り回してくる。
「お前を解体し、正直者へのご褒美のレパートリーにサーロインステーキを加えてやる!!」牛は、寒々とした。こいつは本気だ。マジで私を解体してサーロインステーキにする気だ。そんなのやだ。だって、考えてみてよ。私の話を聞いてみてよ! もしあなたがある日突然捕まって、あなたのお尻の肉が切り取られて、焼かれて、だれかにプレゼントされて、その誰かがあなたの尻肉をおいしく食べるって、想像するだけで空虚でしょ? 孤独でしょ? どうしてこんな事になった!! 私女の子なのに!!
牛と女神は果てしないチェイスを続け、やがて森を抜け出てしまった。牛は精根尽きはて大の字に転がり、観念してしまったが、女神も足がガクガクになり汗ダラダラで、化粧も全部流れ落ちる始末だった。そして、梢に手をついてゲロを吐いた。
「なかなか根性あるじゃない……」女神は口の回りに残っている吐瀉物を手で拭いながら言った。
「くっ、殺せ」牛は言った。
「いや、殺すには惜しい。ちょうど、使い魔を探していたところよ。お前ならよく働いてくれるだろう」
それから女神は化粧を直し、身だしなみを整えると、牛を連れて街へと出かけた。
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この記事のライター
小説家。「ネオ癒し派宣言 劇団無敵」主宰。油絵も描いてる。