地獄のグルメ
ふらりと立ち寄った定食屋で提供されたのは、想像を絶するものだった……
現実と非現実との境界がせめぎ合うグルメ(?)掌編小説。
- 3,012views
- B!
俺は、名乗るほどでもない普通のサラリーマンだ。今日も朝から仕事。職種は語るほどのものでもない。年収も、自慢するほどでもない。ただ、今日みたいに午前から知らない町に外回りに出かけてお昼時には一段落ついた日には、ご当地の味を求めて飯屋の暖簾をくぐってみるのが好きな、チョイ(食い意地)ワルオヤジさ。
今日俺が赴いたのは、海のある地方都市だった。漁港があるのか、商店街に魚屋が多く目につく。いや、魚屋しかないと言ってもいい。魚屋の隣に魚屋があり、その隣に魚屋があり、その向かいに魚屋があり、そのはす向かいに魚屋がある。そんなに魚屋の需要があるのか? この町の人たちは肉や野菜を食べたいと思わないのか? しかし狭い日本とはいえ懐は広いのだろう、そういう食文化の町があってもおかしくない、と俺は思い直した。
そして、食べたいものは決まった。そんなに魚が豊富な町だというのなら、今日の昼飯は魚だ。魚の食える店はないかな? と目線を右へ左へと流しながら歩いていると、あったあった、「さばの味噌煮定食」という暖簾を掛けた、こぢんまりとしたいい感じの店が。
定食と書いているのだから、当然昼飯が食えるのだろう。だが暖簾に「さばの味噌煮定食」とはいかがなものか。まさか「さばの味噌煮定食屋」というわけではないだろうに。でもまあ、腹も空いていることだし、さばも好かん事もないので、思い切ってこの店に決め、扉を開けた。
どこか身構えていた俺の気持ちを裏切るかのように、店内はいたって普通だった。古びた壁紙に、安っぽい机と椅子。どこにでもある、普通の飯屋だ。
「いらっしゃい」
奥の厨房から亭主と思わしき男が顔を出した。これも至って普通の、割烹着を着たジジイだ。
「あ、一人なんですけど」俺は言った。
「どうぞ、お好きな席に」亭主は笑顔で応えた。
店には俺以外の客はいなかった。はやってないのか……? 腕時計をチラリと見ると、午前11時40分だ。客が来るとしたら、これからか。ちょっとタイミングを間違えたかな。こういう一見で入る店では、先客の皿を素早く盗み見たり、注文に聞き耳聞たてたりして、メニューの当たり筋を見極める、そういう、わずか数分に満たない時間でヒントを引き出す技術があるのだ。俺のような一見マスターのチョイ(行儀)ワルオヤジにとってはその程度のワザはわけもない。それが封じられるとは、分が悪くなった。
だが、それは杞憂に終わった。俺は店の壁に掛けられた黒板に書かれているメニューを見て、凍り付いた。
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
さばの味噌煮定食 850円
なんということだ。ここは、本当に、暖簾にある通りに「さばの味噌煮定食屋」だったのか!? うそだろう!? それにしたって、黒板でこんなに主張しなくてもいいのに!
これはまずいことになった……このような店で「さば以外置いてないんですか?」なんて、聞けない。亭主がどんな反応を示すか、想像だにできない。泣くか、笑うか、怒るか……それとも、俺が想像した事すらない感情を沸き起こすのか! 恐ろしい……。俺はチョイ(気分)ワルオヤジにならざるを得なかった……
そのとき、店の扉が開き、脂ののった中肉中背のサラリーマンが入ってきた。店内に客一人という状況に耐え難くなっていた俺はややほっとして、自然に彼の動向に神経を集中させていた。
サラリーマンは席に座ると、亭主のいる厨房に顔を向けて言った。
「さばの味噌煮定食」
うむ。やはりこの店は、さばの味噌煮定食専門店なのだ。さばの味噌煮定食を食いたい奴が、この店に来るのだ。ならば、さばの味噌煮定食には絶対の自信があるのだろう。だったらそれを食えばいいだけの話じゃないか。俺は納得した。
しかし、サラリーマンは続けて、信じがたい言葉を発した。
「味噌抜きで」
俺は亭主に向けて挙げかけていた手を瞬時にして引っ込めた。
さばの味噌煮定食味噌抜き!? そういうのもあるのか!
ということは、この店は、さばの味噌煮をベースにして、カスタマイズ的な注文に応えられるということだな……小料理屋みたいだ。それを定食で、昼飯でやるとは、まさにイノベーションじゃないか! エポックメイキング! でもさばの味噌煮の味噌抜きってなんだ?
俺は結局、身動きもできないままそのサラリーマンの料理を待った……
彼の前に出てきたのは、さばの塩焼き定食だった。
なんだそれは……? アイデンティティを喪失してないか? でもまあ、根本の発想は悪くない。塩焼きの気分なら、塩焼きも食べられるさばの味噌煮定食屋! いいじゃない!
と、しだいに客が入りはじめてきた。腕時計を見ると12時を回っていた。
客は次々に注文を始めた……。
「さばの味噌煮定食、さば抜きで」
「さばの味噌煮定食、皿抜きで」
「さばの味噌煮定食、全部抜き」
俺は自分が食事をしにきたのを忘れるほどのめまいを覚えた。こいつらチョイ(頭)ワルオヤジなんじゃないか?
さば抜きの客は味噌を舐めながら日本酒を飲み始めた。そこまでは俺の理解の範疇だった。だが、皿抜きの客は、テーブルにぶちまけられた料理を犬みたいに這いつくばって食い始め、全部抜きは亭主が料理を置く振りをしたあと、食べるパントマイムをはじめた。君はいったい、それで850円払うのかね、と聞いてみたかったが、怖くて聞けなかった。俺はチョイ(意気地)ワルオヤジだ。
そして、未だに注文すらできない俺がちぢこまっているうちに、さらに一人の客が来た。
そいつは全身をたくましい筋肉で膨らませ、冬だというのに上はタンクトップで、覗かれる腕や胸には凄まじい傷跡がいくつもあった。明らかに、まともな来歴ではない。
客たちも食事をやめ(一名はマイムをやめ)、そのタフガイに目をやった。店全体に緊張が走るのが、一見の俺にもまざまざと感じ取れた。
「『傭兵』だ……」
「『傭兵』が来た……」
客たちは独り言のように呟く。傭兵……そうか……ならば、あの筋肉や傷跡も頷ける……。フランス外人部隊とかにいたことがあって、歴戦の英雄だったりするのかな。だけど、だからといって通り名が「傭兵」だと英雄にはちょっと失礼というか釣り合ってないような……。「洋平」という名前なのかもしれない。
「ヨウヘイ」は空いている残りの一つの席に座ると、厨房に振り返りもせず、低く、しかし通る声で、一言だけ言った。
「いつもの」
いつもの……? いつものとはなんだ? よもや普通のさばの味噌煮定食ではあるまい、俺は息をのんで彼に出される料理を見届けようとした。
……程なくして、亭主が厨房から盆を持って現れる。彼のテーブルに乗り、並んだのは、何の変哲もないさばの味噌煮定食だった。
だが、ここからだった。亭主の手には、ガスバーナーが握られていた。
「お熱いので、お気をつけ下さい」亭主はそう言うとガスバーナーの炎を噴出させ、さばを炙り始めた。ばかな……しめ鯖ならまだしも、味噌煮のさばにそんなことをしたら、味噌が焦げるだけだ! これは、食材を台無しにする行為だ!
しかしそれはすぐに、速断だと思い知らされた。バーナーは激しく輝き、さばを切断した。ああ、あれは調理用のガスバーナーではない! 鉄をも切り裂くアセチレンバーナーだ! 光り輝く剣と化したバーナーは机すら撫でるように切り裂き、さばは光の中で激しく、激しく赤く輝く、ああ、さばがこんなに輝くなんて! 俺は空腹などとうに忘れ、思わず立ち上がっていた。
いま俺の目の前で、何が起こっているのか、俺には説明できなかった。そこにはすでに、俺の想像した事すらない現象が立ち上がり始めていた! 一度は切り裂かれたさばが、再び融合し、辺りの光すら吸い込み始めて激しく渦を巻いている! あれはアセチレンバーナーではない、俺の知らない何かだ! 3000度を超えた店内は時空が逆転し、俺の目の前では一瞬という刹那が燃えながら凍り付き、それでもやがて滅んでいく、さばがさばでなくなっていく! 全ての光、全ての存在、全ての精神がさばに引き寄せられ、一つの粒に成り果てる、世界は砕け、もう一度宇宙が生まれる、だが俺が俺でなくなっていく! 「ヨウヘイ」、おまえは、これを、「いつもの」というのか、すべての消滅を、宇宙の転生を、おまえはいつも、いつも見ているのか。それだけは聞きたかった。だけど俺の肉は塵のように吹き飛び、心も波のようななにかに洗われ、あとに残ったのは、恐ろしく広い海の中をあてもなく泳ぐただの一匹のさばだった。
この記事のキーワード
この記事のライター
小説家。「ネオ癒し派宣言 劇団無敵」主宰。油絵も描いてる。